現代造佛所私記 No.64「オペラ座の猫」
夜8時。海辺の町は、闇が深い。 出先で急に発生した仕事に目処がつき、娘を連れて食料の買い出しに車を走らせた。 夜空と凪いだ海は、まるで暗幕を墨に浸したようだ。浜辺沿いの国道を北へ10分ほど走ると、このあたり唯一のコンビニ...

夜8時。海辺の町は、闇が深い。 出先で急に発生した仕事に目処がつき、娘を連れて食料の買い出しに車を走らせた。 夜空と凪いだ海は、まるで暗幕を墨に浸したようだ。浜辺沿いの国道を北へ10分ほど走ると、このあたり唯一のコンビニ...
梅雨の木曜、京都の街は薄曇りだった。 湿った空気に、遠くの山々がけぶって見える。修理を終えた仏像たちとともに、私たちは2年ぶりにこの地へ戻ってきた。 車の中には、慎重に梱包された阿弥陀如来像。凹凸の多い道路を避けながらの...
「パチッ!」 小さな火玉が舞い、慌てて顔を背けた。一晩中四国を覆っていた嵐が去り、新緑がキラキラと輝く日だ。火を入れた炭が、今日はいつになく爆ぜている。嵐の影響だろうか。 日差しに力はあるが、家の中は肌寒さがうっすら残っ...
5月1日、朔日詣りの日。 私たちは月に2度、氏神様にお詣りしている。 9世帯の集落で、私たち以外に月詣りにくる姿はなさそうだ。 前回はまだいくつか花を残していた参道の桜も、すっかり葉に覆われている。 南天の細い茎が小さな...
「水を外に撒くときはね、“どなた様も、此方様も、どいてくだされや”と声をかけてから撒くんよ」 そう教えてくれたのは、母だった。母が祖母から、そして曽祖母から受け継いだ言葉だという。 もうひとつ、何度も聞かされた言葉がある...
遅い朝食を済ませ、台所を片付けた私は、土間にある仕事机に腰を据えた。 「さて、始めるか。」 キーボードの上に両手を軽くかまえる。 6月中旬にある文化財の学会に向け、要旨集の原稿に向かう。今日は昭和の日。世間ではゴールデン...
家の前に植えた野薔薇が、今年最初の花を咲かせた。 五年前、実家の裏庭で伸びていた野薔薇から小さな枝を一本もらって、土に挿した。真冬の雪にも、猛暑の日差しにも耐えながら、少しずつ枝葉を広げて、さしかけを覆っている。 蕾をた...
「あ、この香り」 香りの主を確かめるよりも先に、心だけが一年前へと遡っていた。 しばらく体調を崩し、ようやく動けるようになった頃。体力を取り戻そうと、朝、滝まで歩くことを日課にした。 自宅から片道徒歩15分、折り返して3...
朝の斎庭に、眩しい陽光が差し込んでいる。楽器や譜面を手に境内に入ると、すぐに汗ばむほど日差しを受けた。 澄み渡った空に、悠々と伸びる杉を見上げながら、「晴れてよかったねぇ」と声を掛け合う神官と伶人たち。 今日は、若一王子...
梅の香りが時折かすめる山あいの小さな町。麓から見る山は、いただきに白い帽子をかぶりつつも、春を待ち侘びた生き物を解き放とうとしていた。 確かな春の兆しがあるというのに、この六畳の和室では、季節の気配も、時の流れも止まって...