仏像に出会う前の暗い幼少期
昭和49年、弊所代表仏師 吉田安成(よしだ やすまさ)は、北陸の職人の家系に生まれました。
大叔父は九谷焼の4代目上出喜山(宮内庁御用達、皇室御用窯)で、吉田の祖母も作陶を支えていました。ものづくり盛んな空気のなかで育ち、物心がついた頃から工作が大好きな子どもでした。
しかし6歳の頃に両親が離婚、ヤングケアラーとしての生活が始まり、不登校に。決して明るいとは言えない幼少期を過ごしておりました。
仏像との出会い
14歳のある日、父親の友人が手作りの素朴な木造の釈迦如来像見せてくれました。
直感で「これだ」と確信した吉田少年は、早速ホームセンターで木材と彫刻刀を買って、見よう見まねで仏像を彫り始めます。
当時、中学校の持ちもの検査で教師が見たのは、彫刻道具しか入っていない吉田少年の学生カバン。先生はそっと鞄を閉じ、見逃してくれたといいます。
「仏像を作りたい!」
独学でこっそり造仏していた弟子時代
生まれて始めて情熱を感じた吉田は、中学卒業と同時に日本の木彫刻のメッカ、富山県井波(現:南砺市)に旅立ちました。
木彫家土田師に弟子入りし、技術訓練校への通学と師匠の手伝い以外の時間をこっそり仏像の習作に費やしていました。
土田師曰く「年季が明けた彼の部屋を片付けていたところ、部屋からはもちろん、屋根裏からも彫りかけの仏像がゴロゴロ出てきた」。土田師の元には、今でも当時の仏像があるのだそうです。
仏師としての一歩
20歳になり、土田師の紹介で高村光雲の流れを汲む岩松仏師に師事することに。埼玉に居を移し、寺院や個人に納める仏像製作に携わるようになりました。
近代以降の技法で仏像を作る工房でしたが、吉田の興味は次第に古い仏像に移り、美術院国宝修理所に就職。刃物の研ぎも一から学び、国宝レベルの仏像の修理現場で大いに刺激を受けました。
しかし「やっぱり仏像を直すよりも作りたい…︎」という内なる声に抗えず、再び関東へ。半年という短い期間でしたが、ここでの出会いが後に吉田の運命を大きく動かすことになります。
東京での新たなステージ
「古い仏像に学びながら製作をしたい」という吉田を見た岩松仏師の紹介で、「株式会社 明古堂」へ転職。 東京へ引っ越し、古仏修理の現場で彫刻を担当することに。
有名寺院の修理・製作にチームで携わる中、美術史の研究者や彩色・截金師など仏像に関わる他の専門家との繋がりが生まれました。
弟子時代から個性の強い職人に揉まれ、人間関係で苦労したことも多くありましたが、30代で弓道に出会った以降は精神的にも安定し、造仏の古典技法を積極的に学びつつ、弓道にものめり込みます。
やがて、寺院から指名で製作依頼がきたり、弓道では国体の東京代表にも選ばれるなど充実した時期を迎えます。このまま会社勤めをしながら、細々と依頼製作をしていくのだろうと考えていました。
運命の歯車が動き始める
ある日の弓道の稽古帰り、道場の後輩とたまたま帰り道が一緒になりました。
仏師であることを話すと、彼女は「ヤリガンナとか、和釘とかも使われるんですか?」と目を輝かせました。
”仏師”という言葉が通じたことに驚き、また職人以外と道具の話に花が咲いたことに衝撃を受けました。以来、稽古のあとはバス停までの帰り道に後輩と色々と話をするように。後の妻となる女性との出会いでした。
ある日、彼女に「個展はしないの?」と聞かれ、「いつかは」というぼんやりした願いが意識されるように。名刺はおろかポートフォリオもSNSのアカウントも持たない吉田のために、彼女が簡単なウェブサイトを作ると、とんとん拍子に新たな製作の依頼、個展開催が決まるなど仕事が展開し始め、独立と結婚を決意。
独立、四国への移住
飛鳥、天平、平安、鎌倉などの古い時代の仏像を愛する吉田は、造仏にあたって「古典は蘇る」という思いが常にありました。
そこで独立に際し、遠い昔に官営で仏像が作られていた場所が「造佛所」とよばれていたことにちなみ、屋号を「よしだ造佛所」に決めて、2016年夏独立。
結婚し、娘が誕生。
東京都浅草橋のルーサイトギャラリーでの初個展「手のひらの仏たち」に家族総出で臨みました。
独立して間も無く、知人の紹介で大きな不動三尊の修理の依頼がきたことを機に、地方移住を考え始めます。妻の出身地である高知を含め全国各地に移住先を探す中、不動三尊の所有者から「修理後の安置先を探して欲しい」との希望を受けました。
そこで、高知で住職をしている妻の高校時代の先輩に相談したところ、ちょうど檀信徒会館にお祀りする仏像をどうしようかと考えていたとおっしゃいます。
しかも、そのお寺の御息女が美術院時代に吉田の体調をいつも気遣ってくれていた先輩ということが判明。御仏の采配だと感じ、移住先を高知に決めました。妻の実家の農機具用の倉庫を借り、作業場にすることに。
独立後の苦しみ
2017年、高知へ移住。
ところが、想像以上に地方での事業の立ち上げは困難を極めました。
「ぶっし?何やよう分からん仕事やな」
「なんで高知にきた?四国の仏像はもうだいたい修理は終わってしもうちゅうぜ。」
「あんたが真面目なんはわかるけど、頼む職人はもう他におるき。」
寺院や地域の堂守に挨拶にいくと、冷たい反応が待っていました。
それでも、温かく迎えてくれた人々に支えられ、地元メディアに取り上げてもらう機会にも恵まれ、寺院や地域から少しずつ依頼が来るようになります。
小規模ながら個展開催にも漕ぎ着け、文化財行政の担当者や研究者との新たな縁もでき始めました。
しかし、商慣習への無知から材の購入で騙されたり、契約内容を反故にされそうになるなど、造仏以外のことで心身消耗することが続きます。
以前のように身近に相談できる師や友人もおらず、孤独感に苛まれ、身体的にも不眠、呼吸困難感、原因不明の湿疹に悩まされる日々を送りました。
一大プロジェクトのスタート
そんなある日、高知の限界集落にあるお寺の寺族が工房を訪ねてきました。
先代からの悲願であったという仁王像修理の相談でした。寺院にとっても諦めかけた事業でしたが、さまざまなことが重なりプロジェクトがスタート。吉田は家族とお寺近くに引っ越して、数年がかりで修理することになります。
独立後最大のプロジェクトでした。
高知ではこれまでにない話題らしいと聞き、地元メディアへ手探りで接触したところ、多くのメディアが取り上げてくれました。
これがきっかけで、口コミで修理や製作の相談が来るようになり、修理事業は2年まちの状態に。
博物館関係者や美術院時代の先輩、大学の各専門分野の研究者、造仏周辺の職人とのネットワークが少しずつできてきて、孤独感も和らいできた時期でした。
どん底で廃業を考える
事業も上向きになったかと思われたのも束の間、2020年以降のコロナウイルスの蔓延で、それまで相談されていた依頼が次々と中止になったり先延ばしになります。
早朝から夜までむしゃらに仕事に取り組んでも、先の見通しは全く立たない状況でした。感染状況が落ち着いてきたかと思えば、地元では都会の有名な仏師に依頼する傾向が強く、県内寺院と温めていた製作・修理でさえ度々県外の競合に仕事が流れ、すっかり自信を失ってしまいます。
「仁王像の修理が終わったら事業をたたもうか…。」
消沈する吉田に、女将(妻)が「今ご縁をいただいている方を大事にしよう」「これまでご依頼くださった方の声に耳を傾けてみよう」と、お客様が困っていること、納めた後にどのような体験をしていたかなどヒアリングをはじめます。
すると、吉田の元へ叱咤激励、嬉しい後日談が次々届きました。
ボロボロになった仏像をどうしたら良いかわからずストレスを抱えていた住職が、吉田と話をして安心感を得ていたこと。
個人のお客様の多くが、仏像安置後精力的に活動されるようになっていたこと。
修理事業がメディアで取り上げられたことで、お寺の檀家希望が増えていたこと。
綺麗になったお像に拝観者が喜んでくださっていたこと…。
その一方で、安置後のケアについてはほとんどの人が意識していないことにも気付かされました。
「このままでは、想定より早い時期にまた深刻な傷みが出てくるのではないか?」そこで、これまでは仏像を安置したら終わりだったサービスを、練り直すことにしました。
新サービスの開始
仏教美術、日本の文化を守るため具体的介入へ
技法や材料にこだわりをもち製作・修理した仏像も、安置した後はお寺や施主にその管理は委ねられます。それにもかかわらず管理の方法を知らないケースがほとんどという現状を知りました。
そこで、安置後の不安定な1年間の品質を補償し、小修理が必要とされる10〜20年後の仏像の健康診断、製作の際に製作仕様書添付するなどのサービスを開始。また、仏像関連事業を社会的・文化的な話題としてプレスリリースするサービスを実装。寺社専門広報PRサービスを開始。
仏像護持に具体的に介入することによって、特に寺院の長期的なコスト削減、労力を軽減し、社会的インフラでもある寺院の活動を支持することを目指すように。
「納めるまでが仕事」の意識から、地域社会の文化を保護し継承する「チームの一員」としての自覚に目覚めました。
国境を越えた活動へ
”BUSSHI”を世界共通語に
事業所としての意識が変化した2022年11月。
偶然にも、リシュモングループの会長、ヨハン・ルパート氏が設立した団体「ミケランジェロ財団※」の職人コミュニティのメンバーとして選抜されたと通知が届きました。
また、現在は国内だけでなく、海外からの問い合わせや相談もいただくようになり、仏像のルーツや日本の伝統を重んじながらも、これからの仏師としてのあり方、造佛所としての役割を常に考えさせられています。
造仏歴34年の現在、日本の仏像が海外でBuddhist sculptureではなく「BUTSUZO」と呼ばれるようになってきたように、仏師が「BUSSHI」と呼ばれるように躍進したい、そして日本の仏師の技術や精神を受け継ぐ後進を育てたいと意欲を燃やしています。
人の人生を大きく変えるほどの御仏像の力を、私たちは信じています。
あの日、素朴な手彫りのお釈迦様が一瞥で吉田の人生を変えたように、私たちが携わるお像が誰かの背中を明るい方へそっと押すことがあったなら、これほど嬉しいことはありません。そして、人として御仏を荘厳する生き方をしていきたいと心から願っています。
※ ミケランジェロ財団
スイス・ジュネーブに本部をおき、職人文化やその優れた技、哲学を守り、その価値を正当に評価にできる人材を支えていくことを目的とした非営利組織。