梅雨の木曜、京都の街は薄曇りだった。
湿った空気に、遠くの山々がけぶって見える。修理を終えた仏像たちとともに、私たちは2年ぶりにこの地へ戻ってきた。
車の中には、慎重に梱包された阿弥陀如来像。凹凸の多い道路を避けながらの運転は、何度経験しても緊張する。
安置先の寺は、再建されたばかりの伽藍だった。伝統と現代建築の狭間に立つその姿に、私たちは思わず息をのんだ。境内は工事の最中で、空には銀ねずの雲が重たい。けれど、車を降りて一歩踏み出すと、不思議と光が差していた。
本堂に入ると、工事中にもかかわらず、そこにはもう神聖な空気があった。薄葉紙をそっと剥がすと、修理された阿弥陀さまが現れる。ご住職の顔がほころぶ。「いやぁ、ようなりましたねぇ」。その一言に、心底ホッとした。
初めてこの像に出会ったのは三年前、うす暗い堂内だった。懐中電灯の灯りに浮かぶお顔は、傷みがひどく、皮膚がめくれていた。製作は十三世紀、長く非公開だった像だという。由緒あるこの仏像が、再び人の前に立つ。そう思うと、ひそやかな喜びが胸を満たした。
搬出の日は、ちょうど年の瀬だった。寒さの記憶は薄いが、銀ねずの空と、ガス暖房の匂いが残っている。梱包に手間取り、荷を積んだ頃には空は搗色(かちいろ)に染まっていた。高知までの道中、表面が剥がれ落ちていないかと不安でならなかった。
修理を終えた今、阿弥陀様は、ただ美しさを取り戻しただけでなく、まるで香気のようなものを纏っているように見える。拝まなくとも、その場にいるだけで心が静まるのだ。
香りのような何か――そういえば、寺史にはこんな逸話がある。時は室町。僧たちが法要を行った際、焼香の香りが遥か宮中にまで届き、後花園天皇の関心を引いたという。その香が導いた先が、まさにこの寺であった。
香りは形がない。けれど確かに在って、人の心を動かす。修理を終えた仏像もまた、そんな存在かもしれない。
御安置し、合掌しながら心で祈った。「末永く、お元気で」。閉じゆく扉の向こうで、阿弥陀様がほほえまれた気がした。
これもまた、語られぬまま消えてゆく無数の物語のひとつ。香りのように、そっと、在り続けてくれることを願っている。