遅い朝食を済ませ、台所を片付けた私は、土間にある仕事机に腰を据えた。
「さて、始めるか。」
キーボードの上に両手を軽くかまえる。
6月中旬にある文化財の学会に向け、要旨集の原稿に向かう。今日は昭和の日。世間ではゴールデンウィークがはじまったようだが、工房はいつも通りだ。
溜まった仕事をいったん脇に置き、今日は要旨に集中すると決めていた。
パソコンにべったり張り付いて、数年間の記録をたどり、データを整え、文章を組み立て、何度も言葉を入れ替える。
「カタカタカタ、タン。」
火鉢の鉄瓶に、何度も水を足した。炭も三度くべた。白湯をすすりホッと一息入れては、カタカタ、タン。
ときおり練香を焚き、お線香に火を入れる。細く立ちのぼる煙が、土間の空気を音もなく変えていく。香りに包まれると、すこし心がホッと温まる。
「トテテテテ。」
小さくて元気な足音が近づいてきた。
娘が得意げに掲げるのは、完成した木工作品。手を止めて、惜しみない拍手と賛辞を送った。
「トトッ」
入れ替わるように軽い着地の音。今度は猫がやってきた。
私が動かないのをいいことに、机に飛び乗り、腕に両前脚をかけて、パソコンと私の間に陣取る。「ゴロゴロ」と喉を鳴らし、満足げに目を細めている。心和むのは、30秒が限界だ。かわいいふわふわはなかなかに重い。腕が悲鳴を上げそうになり、私はそっと白い毛玉を抱きかかえ、居間へ促した。
「スゥー、スゥー」
しばらくすると、床を布でする音がゆっくり近づいてきた。「宿題ができないの」と、眉を寄せた顔が目の前に現れる。私はキーボードに手を乗せたまま、顔だけを娘に向けた。
「そうか、それはしんどいね。」
自分にも言い聞かせるように、「一緒にがんばろう」と声をかけると、娘はまた靴下で廊下を掃除するようにして渋々引き下がった。
暮らしの波が押しては引いていく。散漫になりかける心を、私は何度もぎゅっと束ねた。白湯をすすり、香を焚き、家族に気を配りながら、思考の糸を手繰り寄せ、編み続けた。
「カタカタカタ、タン。」
夜も更け、原稿は大方仕上がった。あとは推敲して、関係者に確認してもらう。完成原稿まであと一息だ。
「カチッ。」
ファイルを閉じた。
「ジョボ、シューーー。ジョボジョボ……」
今日の最後の水注ぎ。ほとんど空になった熱々の鉄瓶に水を足す。
「サッサッ、ホクホク」
ふと覗くと、鉄瓶の底の火が落ちそうになっていることに気づく。火箸で灰をならして、炭をくべる場所を作った。白く痩せた炭が転がってひらき、ぼうっと赤く光る。灰をならす音が、土間の静けさを深くしていく。
「カサッ、パチ、パチ……」
今日最後の炭を置く。点炭が、静かに火を受け継いでいった。
ふと気配を感じて顔を上げると、音もなく娘が立っている
「こっちで宿題やる。」
一番の難所「作文」に取り組むべく、唇をキュッと結んで私の隣に座った。
「カタカタ…」
「サラサラ、ゴシゴシ」
キーボードの音と、鉛筆と消しゴム音が重なる。
並んで言葉を紡ぐ時間は、互いに心地よい沈黙と集中を連れてきた。
暮らしと仕事の音が重なりながら、夜の静けさを一段と濃くしていった。