「あ、この香り」
香りの主を確かめるよりも先に、心だけが一年前へと遡っていた。
しばらく体調を崩し、ようやく動けるようになった頃。体力を取り戻そうと、朝、滝まで歩くことを日課にした。
自宅から片道徒歩15分、折り返して30分。雅楽の演奏会を控えていたので、歩きながら龍笛の唱歌を繰り返し口ずさんだ。
だが、最初は、歌うどころか滝までたどり着くまでに息が上がってしまった。心臓がきゅうっと痛み、立ち止まり、深呼吸を繰り返しながら、一歩一歩。
何度も諦めかけながら、ようやくたどり着いた滝の懐。
その大きな水音は、頭の中に残る細かな「言葉の殻」を、ざーっと洗い流していった。そして、ふわぁっと微細な飛沫で包み込んでくれた。からだの奥まで、冷たく清らかな潤いが満ちていく気がした。
不思議と、体の苦しさがなくなり、帰り道の足取りの軽かったこと。
以来、3〜4ヶ月くらい、朝の日課として滝の入り口まで歩いた。
世界のはざまにあるような場所だった。かつて人が暮らした痕跡をわずかに残しながら、朝は特に人も、獣もいない。携帯の電波さえも届かない。
大きな岩の上に、苔の絨毯。座るのにちょうどいい塩梅で、腰を下ろした。
滝の入り口に日常を預けたつもりになって、滝の御前では、ただの呼吸する植物のように座った。
休日には、娘と夫も一緒に歩いた。ときにはお弁当を持って、獣道を降りて水辺まで。岩に腰を下ろし、水に足をつけ、笛を吹き、ただ自然に身をあずける時間を過ごした。
ある日、娘と二人で滝に会いにいった帰り道のことだ。もうすぐ家が見えようかというカーブで、ふいに甘い芳香に引き止められた。
娘と顔を見合わせ、あたりを見回す。
小道のすぐ脇に、楚々とした白い小花たちが、群れ咲いていた。陽光を受けて、ぽうっと輝くアケビの花。
車では気づかずに通りすぎていた道端だった。蔓をくるくると絡ませ、こんもりと一角を押さえている。
季節が巡り、今の時期になって娘も思い出したのだろう。数日前、「プレゼントだよ!」と二、三輪のアケビの花を手のひらに乗せてくれた。「この香り、好きでしょう?」
滝のほとりに座ったあの静かな朝へと、甘い香りと一緒に心がひと息に飛んでいく。
湿った苔の感触。
響く水音。
ひんやりとした森の匂い。
何も考えずに、ただそこに在った、あのとき。
「自分」という輪郭が、自然のなかに溶けていくような朝の時間。
アケビの香りが、何者でもなくなる場所への扉を開けてくれた。
滝の懐にただ身を寄せるだけの朝の時間。
アケビの香りとともに、胸の奥で静かに息づいている。
