夜8時。海辺の町は、闇が深い。
出先で急に発生した仕事に目処がつき、娘を連れて食料の買い出しに車を走らせた。
夜空と凪いだ海は、まるで暗幕を墨に浸したようだ。浜辺沿いの国道を北へ10分ほど走ると、このあたり唯一のコンビニが、ぽうっと灯台のように現れた。
馴染みの入店音に迎えられ、娘と私は思わず足を止める。
「こんな時間に、こんなに人が…」
缶詰になってパソコンに向かっていた私は、すっかり忘れていた。世間はゴールデンウィークの真っ只中だったのだ。
頬を紅潮させた虚ろな目の男性、観光に来た家族連れ、日焼けした若者たち。私たち母娘は、どんなふうに映っただろう。
この連休中、私は実家で老猫のペットシッターをしている。両親は、弟家族と旅行中だ。
右目から鼻にかけて腫瘍ができ、顔貌が変わってしまったチャトラはすでに、すべての薬から解放され、静かに命の灯を燃やしている。乱れた毛並み、丸まった背骨。老いは容赦ないが、長く立派な尻尾だけは変わらず美しい。
「この尻尾は値打ちがある」
そう言いながら祖母が優しく撫でていた姿を思い出す。保健所から、あわやというところで父が引き取ったチャトラは、ケンカは弱いがやんちゃな美丈夫で、撫でられるのを好まない気難しい猫だった。
猫の見送りは何度か経験してきたが、チャトラほど、低空飛行を続けながら生き延びる猫には出会ったことがない。余命わずかと告げられてから一年が過ぎ、今では十九歳となった。今日も自力で水を飲み、トイレを済ませ、キャットフードを平らげた。
刺身も欲しがるらしく、母からは「最近マグロには飽きて、アジがいいらしい」と申し送りがあった。残念ながら今日はアジが手に入らず、知人からもらったマグロの切れ端を出してみた。
「今日のマグロは、美味しいと思うよ」
そう声をかけて撫でると、チャトラは黙って目を閉じた。
普段はテレビ前の定位置から動かない彼が、この原稿を書き始めたとたん、私のまわりをうろうろし始めた。自分のことを書いていると気づいたのだろうか。しばらく体を擦り付けるように往復したあと、左脇にゆっくりゆっくり前脚をそろえて座り込んだ。
「チャトラ、来てくれたの?ありがとう。ちょっと楽になったかな」
骨の浮いた背を撫でると、小さく喉を鳴らしながら、ぴんと耳を立てた。
娘は、チャトラが苦しそうにしたり、吐血したりすると、怖がって部屋の隅に逃げてしまう。
「これも、命だよ」
襖の裏で怯える娘に声をかけながら、汚物の処理を終えた。
チャトラ、気にしなくていいよ。今夜はまだ仕事をするから、こうしてお互いの命をもう少し並べていようか。
この買い出しで手に入れた食料は、できるだけあなたの命をそばで見ていたくて、買ったものだ。
「チャトラ、オペラ座の怪人みたいだね」
彼は何も反応しないが、相変わらず、そばで撫でさせてくれる。
ただそこにいるだけで、尊い命だ。