梅の香りが時折かすめる山あいの小さな町。麓から見る山は、いただきに白い帽子をかぶりつつも、春を待ち侘びた生き物を解き放とうとしていた。
確かな春の兆しがあるというのに、この六畳の和室では、季節の気配も、時の流れも止まっているようだった。
閉めきった障子から、ぼんやりと光が差し込む。少年は、畳の上に膝を抱えて座っていた。
細い肩には使い古した毛布がかかっている。膝頭に顔をうずめたまま、薄暗い部屋の片隅で冷えた足先をさすっている。
中学校にはもう長らく行っていない。とにかく人に会うのが怖かった。
朝になっても布団から出られず、出たとしても、部屋の隅で時間を潰すように過ごしていた。夜にラジオやテレビをつけて音楽を聴くことが唯一の楽しみだった。テレビが砂嵐になると、布団に入る生活。昼間は、顔を上げる理由も、声を出す理由もなかった。
ある日、玄関の戸が軋む音で目が覚めた。
なにやら男たちの話し声がする。少年は体を小さくこわばらせた。
父親と二人暮らしの家に、客が来ることなどほとんどなかった。学校の担任を除いては。
「おーい、安成、これみてみなさい」
父親の明るい声がした。どうやら、学校関係者ではないらしいと考えた少年は、部屋から顔を出した。玄関に差し込む外の光が思いのほか眩しい。ほんの少し目を細めた。
機嫌よく履き物を脱ぐ父の後ろに、父親の友人がにこやかに立っている。少年も知った顔だった。手に何かを抱えている。少年はほっとして、のっそりと体を起こし玄関に向かって歩み出た。
白い布に包まれた塊が、父親の友人の両手に収まっている。
「みてみるか?」
おじさんはなぜか嬉しそうだ。少年が黙ってうなづく前に、布を解いた。
仏の姿をした木の塊。
少年は、目を見開き、そして目を離せなくなった。
本で見たことがある、仏像と呼ばれているもの。座った釈迦如来の姿だった。
木の塊から削り出されたその形。
14年間少年の目と心を覆っていたかすみがサーっと晴れるようだった。
(――これだ。)
少年は、初めて目の前に「道」がひらけたような気がした。
その夜、少年は父親に躊躇なく言った。
「彫刻刀と木がほしい」
少年が物心ついてから、親にねだったのは初めてのことだった。
翌朝、親子で町のホームセンターを訪れた。
駐車場の舗装のヒビは雪解けで濡れていた。少年は、これまでに感じたことのないような、胸の高鳴りを感じていた。
木材売り場で、フーッと深く息を吸った。
木のにおいに包まれて、呼吸が深まる。なんと、良い匂いなのだろう。
棚の隅にあった彫刻刀を手に取った。思ったよりも軽い。しかし、じっと刃先を見つめる間に、手の中で程よい重さを帯びてくる。少年は、それがどうしようもなく嬉しかった。
この日から、少年は木を削りはじめた。
教科書の代わりに、木片。
鉛筆の代わりに、刀。
朝も夜もなく、ただただ手を動かし、木を削り、仏の形を作っていく。
なぜそうするのか、自分でもよくわからなかった。けれど、その時間だけは、恐れも不安も消え去っていた。
「サク、サク」
一刀、一刀、削られるたび、形ができていく。その確かな応答が少年の孤独を癒す。
降り積もる木屑と清麗な香りが、部屋と少年に満ちていく。
春遠い町で、少年の手のひらの中に、小さな陽だまりができはじめていた。