現代造佛所私記 No.60「娘の顔」

「水を外に撒くときはね、“どなた様も、此方様も、どいてくだされや”と声をかけてから撒くんよ」

そう教えてくれたのは、母だった。母が祖母から、そして曽祖母から受け継いだ言葉だという。

もうひとつ、何度も聞かされた言葉がある。

「どんなに忙しいときでも、手を合わせなさい」

目に見えない世界のことを、母は当たり前のこととして話していた。

その教えは、思えば今の仏像工房での暮らしのなかにも、深く根を張っている。見えなくてもそこに「在わす」のだと、私が自然に信じているのは、母の影響だ。

「勉強しなさい」「宿題しなさい」と言われた記憶はない。将来のことで言われたのは「歳をとるって面白いよ!」だった。

受験の時期も、母はただただ明るく、いつもどおりの調子でいてくれた。
それがどれほど救いだったか。もし母が私に気を遣い、腫れ物に触るように接していたら、かえって苦しかっただろう。

夜中に突然胃がギューッと痛んだときがあった。「お母さん、お腹が急に痛くて」と搾り出すような声で母に助けを求めたとき、母はさっと顔色を変え、お腹に手をあてて診てくれた。「病院いこか」と言いながらさっさと支度をし、私を車に乗せて夜間救急へ走ってくれた。

後部座席で横たわる私は、運転席の母には見えない。でも、母が、私の気配に気を配っているのがわかった。親であれば、当たり前のことかもしれない。だけど、当時の私は、この人はどうしてこんなに私を大事に扱ってくれるんだろう、いつも不思議な気持ちでいた。

高校進学を機に、私は寮生活を始めた。
父がしょんぼりして何も言えなくなっている横で、母は笑顔で送り出してくれた。母だって、寂しさも、心配もあったはず。思い切りがよく腹の括り方も潔い。それも母の長所だ。

そんな記憶をたどっていたら、不意に胸を突く思い出がよみがえった。

高校の文化祭。

母は往復5時間かけて来てくれたのに、私は友達と遊ぶのに夢中で、何時間も母を待たせた。

母はもう忘れているかもしれない。けれど私は、そのときのことを思い出すたびに、ぎゅっと胸を掴まれる。どうしてすぐに会いに行かなかったのだろう。話したいこと、たくさんあったはずなのに、と。

その思いがずっと胸の奥にあったのだろう。社会人になって、連休が取れるようになると、全日程を使って実家で過ごした。先祖のこと、お墓のこと、家のこと…。休日中、何時間も一緒に過ごし家族の話を聞いたり、あちこち出かけたりした。

あれは、私が三十代のころだったか。
「赤ちゃんのときと顔が変わらんねぇ」と、母がふと口にした。

成人して以降、地元では「誰かわからんかった」と言われることが多い私だが、母の中には、いつまでも赤子だった私の面影が、ちらちらと揺れているのだろう。

私も、娘を見ていて同じようなことを感じている。

私が幼い頃は、共働きの両親が仕事が終わるまで、祖母宅に預けられることが多かった。
夕方、迎えにきた母は、祖母の脇に足を投げ出して座り、みかんを食べながら世間話をしたりしていた。

そのときの母の顔を見て、私ははっきり観じた。

「お母さんなのに、大きな子どもみたい?」

当時は不思議な気持ちで見ていたが、あれは母の「娘の顔」だったのだ。

今、娘を連れて実家に帰るとき、きっと私は、あのときの母と同じ顔をしている。そんな私を見て、娘も感じるものがあるかもしれない。

そういえば、祖母はケラケラとよく笑う人だった。娘がいま、その祖母にそっくりな笑い方をするので、時おり私は、祖母が一緒にいるような気がしてしまう。

命が受け継がれ、生まれ、育ち、育てていく――その不思議。そして、どうか幸せにと願う気持ちの連なり。

それが母の中に、そして私の中にも、同じ明かりとして灯っていることを知っている。

母であることと、娘であること。
その両方を往復しながら、私たちは生きている。

少し早い母の日として。

「お母さん、いつもありがとう」

アイキャッチは、新人看護師時代に初めて担当させていただいた患者様の奥様の作品。遠くから見守ってくれる“もう一人のお母さん”。ハギレで丁寧に仕立てられた押絵には、「幸せでいてね」というメッセージがいつも込められている。