文化財の学会に向けて、事例発表のポスターをつくっている。
先月、要旨集の原稿を書いたときにも思ったことだが、「よし、まとまった」と一息ついて見返すと、必ず何かが抜けている。肝心なひとことが洩れていたり、もうひとつ先まで言葉を届けておきたい箇所が見つかったりする。
削って削って、ようやく収まったと思えば、また書き加えている始末だ。
ポスターもまた然りで、言葉を減らし、図を使い、写真も入れて、ひと目で伝わるようにと工夫を重ねる。けれど、なお情報が収まりきらない。発表まで、もう日もない。
学生の頃や、看護の研究発表をしていたころには、指導してくれる人や、励まし合える仲間がいた。今はひとりで、図案やフロー図を頭の中に描いては、ノートに書き起こし、消して、また書きなおしている。
四年がかりで歩いてきた一つのPRの区切り。限られたスペースに籠めるだけでも骨が折れるのに、それを見知らぬ誰かにも伝わるよう、たった一枚にまとめあげるというのだから、途方もないことだ。
知らない人に、短い時間で伝える。それも、大切なことを。
そんな難しさに、この頃「あはひ」のPRでもぶつかっていた。言葉ではとらえきれない音や舞を、どう伝えるか。アーティストたちが響かせる「かたちのないもの」を、観たことのない人に知らせるむずかしさを、日々思い知っている。
流れつづける情報の川のなかで、大事なことを誰かに届けようとするとき、必要になるのは技術と、情熱と、持久力。加えて、腹の座った信念のようなもの。
やってみると、むずかしい。だが、手応えがある。
こんなふうに考えながら、ふと、仏像のことが思われた。
教えを、慈悲を、かたちにしてあらわした先人たちの、感性と技術。仏像というかたちにするということの、なんと偉大だったことか。
あの御像たちは、言葉を持たない。けれど、見る者の心にじかに届いてくるものがある。国も文化も、ことばの壁も越えて、ただのお姿だけで、伝えてしまうことがある。
伝えるという営みに身を置くようになって、仏像の持つ力に、あらためて息を呑んだ。
あれほどまでに、伝える工夫を尽くした人々がいた。
自分もまた、その流れのはしっこに、そっと加わっているのかもしれない。ふと、そんな気がした夕暮れだった。