現代造佛所私記No.113「青空理髪店」

この「理髪店」には、鏡がない。
誰も知らない、山奥で時々ひっそりと開く。

梅雨の終わり、雨上がりの午後の光が、静かに玄関先を照らしている。

「今日、お願いできる?」
月に一度だけ、常連の男性客から連絡が入る。

午後1時半、コンクリートの上に丸椅子を置き、支度を整える。椅子のそばには、バリカンとすきバサミ、タオルとケープ。どれも10年以上使い続けている、古い道具たちだ。

庭の草はまだ濡れていて、黒猫が足先の露を払いながら近づいてくる。「にゃあ」とひと声。どうやら接客係をするつもりらしい。

この「理髪店」の最初のカットは、世田谷の古いアパートの畳の上。「よかったら、切ろうか?」そう声をかけたとき、彼は思いがけないほど嬉しそうに笑った。

道具を揃えたのは渋谷のロフトだった。最新型だったバリカンも、今ではもう旧式だ。かすれた文字に触れないよう取り出し、充電をする。

「今日は蒸すねぇ」

午後2時きっかり、彼がやってきた。

ケープをかけ、タオルを巻く。
「きつくない?」「大丈夫。いつもどおりで、少し短めに」
このやりとりも、毎回同じ。

バリカンのアタッチメントを六回変えて、大まかな形を整える。手は迷わない。最後にすきバサミで仕上げる。今日は眉も、少しだけ整えてやった。

切られるほうはほとんど話さない。静かに目を閉じ、ただ任せている。時々、顔にかかった切りクズをサッサと払うと、ぎゅっと顔をしかめる。

彼のこめかみには、白いものが混じりはじめている。年齢相応といえばそれまでだが、十年前にはなかったものだ。

「老いを受け入れられないのは、不幸なことだ」
彼がそうつぶやいた。

彼が美容室に行ったのは、私が知る限りたった一度。結婚式の三日前、駒沢のヘアサロンへ行ったきりだ。

「ハレの日くらいはプロに整えてもらったら」とすすめたのだ。

黒猫は、落ちた髪のそばにゴロンと横たわって手足を伸ばしている。
玄関の中では、白猫が仲間に入れて欲しそうに、じっと様子を見つめていた。

「ああ、さっぱりした。ありがとう」
「どういたしまして」

そして、こう続く。
「わたしも揃えてもらえない?」
「えー、無理だよ」
これも、いつもと同じやりとり。

私のセルフカット歴も、もう10年を超えた。

あと何回、この髪を切るだろう。
あと何度、この「理髪店」は青空のもとに開かれるのだろう。

特別なことは何もないけれど、ここにはたしかに、積み重なる営みがある。

誰も知らない「青空理髪店」。
私はいつからかそう呼んでいる。