冷蔵庫に、糠漬けがある。
いつもは一日か二日で食べる茄子を、数日そのままにしていた。
「しまった、漬かりすぎたかな」と思いつつ、取り出してみると、いつもと少し違う深みのある香りがして、想像以上に美味しかった。
奥深い酸味と、静かにしみじみと広がる旨味。これまでにない、別の景色が口の中にひらいた。
最初から「このくらいがベスト」と決めていたら、きっと出会えなかった味。そんな糠漬けを思いながら、この1000日コラムのことを考える。
書き続けて100日を超えて気づいたのは、ついつい陥りそうになる“罠”があることだ。
「今の自分はこうだ」
「この出来事には、こういう意味がある」
そうやって言葉にし、意味づけることで、取り急ぎの安心を得ようとする気持ち。それが、いつのまにか、まだ見ぬ可能性を閉ざしてしまうこともある。
私は毎日このコラムを書いている。
日々の出来事や、心の中のゆらぎを、1日の終わりにバラバラっと並べて、そこから言葉を掬い上げ、PC画面に置いていく。
そのときいつも、「コラムが書きたがっていることは何だろう?」と問いかける。すぐに形をなす日もあれば、どうしてもまとまらない日もある。
でも、それでいいのだと思う。きちんと形にしようとしない日にも、「書く」という営みがある。
今日は、そんな「まとまらない日」だ。どこかを切り取って、意味づけしたくなる自分もいる。だけど、あえてそれをしない。
この感じは、まだ漬けておいたほうがいい茄子のようなものかもしれない。
明日、また違う味がするかもしれない。だから今日は、このまま静かに置いておく。
糠床にするように、少しだけ文字をかき混ぜて。