現代造佛所私記 No.361「ケンブリッジ大学の掟と、PRというレバー(前編)」

蒔いた種は、いつ芽吹くかは分からない。

10年ほど前、夫と工房を始めてから、SNSを「工房の女将」としてスタートした。

今から振り返ると、なんの戦略もなく気が向いた時に投稿していた。高知に移住した時は、目新しさからか、メディアに取り上げていただいた。私は、それが何になるのか、分かっていなかった。ただ、発信は相変わらず何となく続けていた。

海辺の小さな町から、山奥のもっと小さな集落に引っ越すと同時にコロナ禍があって、SNSの発信が少し増えた。そのうちに、PRのプロになって、少しずつ発信も変わっていた。作家秘書をしていた頃のことを思い出しながら、言葉を選ぶようになっていった。

そんなある日、新聞社から連絡があった。コラムを書きませんか、と。推薦してくださった方が3名いたという。誰かいい人はいないか、三人に別々に相談したら、三人ともが私の名前を上げてくれたのだそうだ。私の発信をご覧くださっていた方々だった。

さらに、その新聞のコラムを読んだ方が新聞社を通じてご連絡くださり、講演に呼んでいただくことになった。その講演がシリーズになり、「話せる人なのか」と、MCの依頼もいただくようになった。一つの発信が種となり、それが積み重なることで発芽して、気づけばたくさんの人との出会いの庭が広がっていた。

それまで私は、仕事で吉田と現場に向かっても、「付き添いの奥さん」のように扱われることも少なくなかった。名前で呼ばれることは、多分ほとんどなかった。

変わってきたのは、自分の言葉で語れる場をいただいてからだと思う。

新聞での一年半の執筆。学会発表。講演。1000日コラム。積み重ねるうちに、関係性が変わり始めるのを感じた。

名前を呼ばれるようになり、意見を求められるようになった。(続く)