現代造佛所私記No.146「祝・メダカの赤ちゃん」

我が家の玄関先に並ぶ大小様々なバケツ。それはいつしか私にとって「水中の静かな宇宙」となった。

今回は、現代造佛所私記No.134で登場したメダカたちの後日談だ。

その後、彼らは元気に泳いでいる。ささやかながらも確かな命の営みが、その小さな世界を覗き込む私の日課であり、楽しみとなった。

最初に、緑光のペアが数日で産卵した。胸を躍らせた私は、ホテイアオイの根に産みつけられた小さな卵たちを、教わった通り別のバケツに移し、毎日そっと成長を待ち望んだ。

ある朝、いつものように卵用のバケツを覗き込んだ。その瞬間、私の目は一点に釘付けになった。

そこにいたのは、紛れもない、メダカの赤ちゃんだった。小さな尾びれをピロピロと小刻みに動かし、懸命に泳いでいる。そのたった1匹の、あまりにも小さく、しかし力強い姿に、私は思わず息を呑んだ。

この日を待ち侘びていた9歳の娘を呼んだ。「産まれたよ!」私の興奮した声に、娘もパジャマのままバケツを覗き込む。

小さな命を見つけた瞬間、「かわいい!元気に産まれたことが嬉しい!」と、目を爛々と輝かせた。理屈ではないのだろう。命の前に、命が響いた瞬間だった。

亡くなったメダカを思い悲しんでいた娘の、その尊い心の上に、この新たな命の喜びが重なったことを、私は賛美した。

「こうして一緒に嬉しいの、仲良しでいいね」と、はにかみながら微笑んだ娘の言葉が、私の胸に温かく灯った。

翌朝には、さらに兄弟たちが増えた。小さく動き回る彼らを数えるのは至難の業だったが、全部で7匹の命を確認できた時、私はホコホコと胸がぬくもった。

この数ヶ月に旅立っていったメダカたちの、喪失の悲しみがまだ心に残る中、元気に産まれた新しい命が、こんなにも心を明るく照らしてくれるとは。深く身に染みた。

日ごとに、彼らの姿はしっかりと目で捉えられるようになる。赤ちゃんメダカ用に手のひらで細かく粉砕したエサを水面に撒くと、散らばっていた小さな群れが一斉に浮かんできて、小さなお口でせっせと食べる。その応答がまたたまらない。

ふと、以前見聞きした、ある認知症を患った女性の話を思い出す。自身の記憶が曖昧になる中で、その女性は近所の猫へ毎日必ずエサを与え、その食事をする様子を、飽きもせずにじっと見守っていたという。

猫はもはや言葉を超え、根源的な繋がりを持つ存在だったのだろう。この話を聞いた時、私は深く考えさせられた。

人の最も奥深い喜びとは、理屈や言葉を超えた、このような純粋な慈しみ、他者を大切に思う気持ちの中に宿るのかもしれない、と。

メダカの赤ちゃんにエサを与える私のささやかな行為も、その女性の猫への愛情と、根底では同じなのかもしれない。小さな命が食事をする姿を見守る時、言葉では言い表せない、静かで温かい充足感が心を満たすのだ。それは、全てを忘れてしまっても、決して失われることのない、人間の本質的な感情なのかもしれない。

仏教に「生老病死」という言葉があるように、命あるもの皆が通る道だ。この理(ことわり)は頭で理解していても、実際に大切なものを失う時、心は大きく揺れ動く。失う悲しさ、寂しさ、そして生まれ育つ喜び、嬉しさ、その全てを包み込むような愛おしさ。小さな命からも、こんなにも大きな影響を受けるのだ。人が心に抱く細やかな感情の機微は、まさに神様が授けた奇跡ではないか、とさえ思う。

新たな命の誕生と、古い命の終焉が同時に起こる。この一連の出来事を通して、私の中で「命の循環」というテーマが、より深く、立体的に立ち上がってきた。

人との縁もまた然り。愛する人とはいつか別れる日が来る。その別れと悲しみ、寂しさを抱えながら、如来や菩薩はじめ、御仏のお姿の前で手を合わせることで、心の中に育まれるものがあると、私は信じている。

それは、これまで出会った多くの施主様から、身をもって教えていただいたことだ。別れの悲しみを抱えながら、新たな出会いの喜びも抱きしめて、その全てを丸ごと御仏に差し出すその姿を見ると、私はいつも目が潤んでしまう。

「また会おうね」
今日も、水槽の小さな宇宙は、多くのことを語りかけてくれた。