現代造佛所私記No.137「結んで、ほどいて」

結んで、ほどいて、また結んで。
日にいったい何度、この手は繰り返しているだろう。

私の暮らしには、三つの「紐」がある。
作務衣の紐、仕覆の緒、そして仏像を包む薄葉の紐。今日は、その話を。

作務衣の紐

朝の工房。
まだ薄暗い深緑色の光のなかで、私たち夫婦は朝一番の「おはよう」以後、言葉を交わさずにそれぞれ支度をする。衣擦れの音だけが、静かに部屋に漂う。

作務衣の紐をキュッと結ぶと、一日が始まる気がする。仏師の夫も、事務方の私も、1年の多くをこの紐を結んでは、ほどいて過ごしている。紐が、工房という世界への入り口であり、音のない終わりの合図でもある。

かつて私は、工房に入るときエプロンをしていた。夫の仕事場に「お手伝い」として立つ感覚だった。でも五年前、初めて作務衣を着て、紐を結んだ日、不思議と背筋が伸びた。私もこの場所を担う一人なんだという気持ちが、むくむくと湧いてきたのを覚えている。

夫のお下がりの黒い作務衣。東京の下町で見つけた決して高価ではない品だが、柔らかい七部丈の袖は、何をするにもちょうど良い。それに、どんなに汚しても気にならない。そんな気安い衣だけど、胸の前で身ごろを右左と重ね、紐で結べば、洋服を着るよりほんの少し背筋が伸びる。

「紐で結ぶ」。
それは、役割と自らを結びつけることでもある。そんな感覚は、茶の湯の場でも、また別のかたちで現れる。

仕覆の緒(お)

茶の湯に用いられる、茶入れを覆う仕覆(しふく)には、「緒(お)」と呼ばれる紐がついている。

茶入れの中に抹茶が入っているときと、空(から)のときで、この「緒」の結び方が異なる。最初に稽古をしたときは、指先が思うように動かず、まるで紐に遊ばれているようだった。

特に、「長緒(ながお)」という、平たい茶入に用いられる、緒が長い仕覆の扱いは、なかなか師匠のようにはできない。

「上からかけて、長さを揃え、親指にかけて……」

師匠の、歌うような解説を真似して、ぶつぶつと唱えながら、手を動かす。手順はあっていても、緩かったり、形がいびつだったり。なかなか身につかずもどかしい。

師匠の所作には、見惚れてしまう。薄暗い茶室にあって、照りがあり華やかな仕覆を、リズム良く開いて閉じ、緒をおさめていく様は、まるで紐を使った舞のようだ。

ところで、「緒」という言葉を目にして、「堪忍袋の緒が切れる」という慣用句を思い出す方もいるかもしれない。

それまで辛抱していたことが、限界を超えて抑えきれなくなり、態度や言葉で表してしまうことだ。

紐である「緒」は、心の中にある“耐える力”の象徴であり、境界としての弾力性、耐性、そして限界も表している。

紐が機能しているあいだは、人は耐えられる。戯れに、もし、堪忍袋が仕覆のようなものならば、と考えてみる。

紐とは、他人との円滑な交流をするために、ぎゅっと縛るだけではなく、緩めたり、飾り結びなどして、表現豊かに本音を出し入れしたり、本音を代弁したり。

このような、対象に応じて、結び方を変えるその心は、仏様をお包みするときにも通じている。

薄葉の紐

三つめの紐は、仏像を運ぶときの紐。
私たちは、「薄葉紙」という薄くて柔らかい、文化財梱包でお馴染みの紙から紐を作る。

薄葉紙の「目」を読み、サーッと繊維に沿って裂き、軽くしごいて細長くする。このときの、乾いた、涼やかな音が私は好きだ。

はらっと仏像にかける清潔な薄い白の紙。仏様を優しく包み、強すぎず弱すぎず、沿うように白い紙の紐を結ぶと、淡い安堵感が胸に広がる。

薄葉の紐は、部位によっては平たく伸ばして支持点を広くしたり、もう一度広げて小さなパーツを包んだり、姿を自在に変える。多目的に使えるところも面白い。

しっかり結べるけど、外すのも比較的容易で、控えめな存在でありながら、工房には欠かせない縁の下の力持ちだ。


紐は、境界をつくり、内外の関係を結ぶ。ほどける優しさを携えて。ときに花に擬態して、私たちの暮らしに彩りを添えて。

さて、そろそろ作務衣の紐を解く時間だ。
ほどいて、結んで、またほどいて、明日に備えよう。

雨上がりの涼しい風が吹いてきた。

1000日コラム 夏の特別企画「ことばの種、お育てします」第二話 完
ことばの種「紐」から、芽吹いたお話でした。