現代造佛所私記No.136「雲という舞台装置」

雲とは、不思議なものだと思う。
天と地、神と人、この世とあの世……そのあいだに、もくもくと雲が現れ、“向こう側”の気配を漂わせる。まるで、舞台装置のようだ。

今日は、二つの雲について考えてみたいと思う。

ひとつめは、気象としての雲。

雲は空模様の先触れとなり、雨を降らせ、雷を宿し、地上の暮らしと深く関わっている。ときには、心を映す鏡のように、かたちを変えて遊んでくれたりもする。遠い空にありながら、どこかとても身近な存在だ。

あなたは、今日、空の雲を見ただろうか?どんなかたちをしていただろう。

私が今日見た雲の中で、いちばん印象に残っているのは、なんと言っても「雲海」だ。

午前中の用事を終えて、車で山中の自宅へ戻る途中、ちょうど海抜二百メートルほどの地点で、視界がひらけた。眼下には、白い雲海が広がっていた。

雲の下から、木々の先や小さな山々の頂だけが、ぷかぷかと浮かんで見える。さっきまでいた街並みや田んぼ、高速道路、それらはまるで、海底世界のように感じられた。

すると、不思議なことに、さっきまで抱えていた悩みが、他人事のように思えてくる。呼吸が深くなり、気持ちがすっと軽くなる。

もうひとつは、文様としての雲。

いま工房では、阿吽の麒麟(きりん)像を彫っている。紀元前の中国で「平和の世のしるし」とされた、想像上の神獣だ。

その麒麟たちの脇には、水を含んだような、ややずっしりとした厚い雲が幾重にも渦を巻いている。
古来、めでたいシンボルとして図案化されてきた雲は、神仏にまつわる意匠の中に頻繁に登場する。

天と地の境界に立ちはだかる雲。その狭間から姿を現す阿吽の麒麟。その体には、火焔の筋がかかり、「今まさに登場した」という動的な印象を与えている。

この雲は、仏像でいうところの台座や光背のような役割をもち、空間に奥行きを与え、世界観を醸している。

私は彫る人ではないけれど、一枚のケヤキ材から、その雲が彫られていく様子を日々そばで見てきた。

ざく、ざく、ざく、とたたき鑿を入れ、トン、トン、と輪郭に沿って角度をつけながらノミを運ぶ。
渦巻く雲の微妙なふくらみは、彫刻刀でサクサクと、薄く削り出していく。

図案を、木という実体を通して立ち上がらせていくというのは職人ではない私にとって、気の遠くなるような作業に見える。けれどそこには、どこか人間らしい営みの根源に触れているような感覚がある。

雲は、「あちら」と「こちら」を分け、そして、つないでいる。神仏の登場を告げ、人の心を別次元へと運ぶ。それを可能にしているのが、雲という存在なのだ。

思えば先人も、「雲の通ひ路」なるものを空に見ていたではないか。

雲とは、なんと不思議で、優れた“舞台装置”なのだろう。

1000日コラム 夏の特別企画「ことばの種、お育てします」第一話 完
ことばの種「雲」から、芽吹いたお話でした。