ときどき、小学生の娘が「大好き!」とだけ言うことがある。
それは、私や夫が彼女に何か好ましいことをしたときだけではなく、なんの脈絡もなく、唐突に発せられることが多い。
「お母さん」と呼びかけるような調子であったり、「わたしここにいるよ」という存在証明のようにも感じられる。不意に「大好き」という気持ちがあふれたのだな、と思うときもある。
私はいつも、すぐに「大好き!」と返す。ぎゅっと抱き合ったり、手をつないだりすることもある。
その、なんの前触れもない「大好き」は、まるで不意打ちのように、こちらの胸を打つ。
成長すれば、こうしたやりとりも自然と減っていくのかもしれない。だからこそ、私はこの一瞬を、心に一つずつ刻むような気持ちで受けとめている。
「お母さんも子どもの頃、ばあばと“大好き”したの?」
ある日、娘にそう尋ねられた。
「うーん。赤ちゃんの頃は、していたかもしれない。でも、覚えていないな。ばあばに『大好き』って言われたことも、言ったことも、たぶんないかな」
そう答えると、娘は目をまん丸にして驚いた。
「えっ? “大好き”しなかったの?」
信じられない、という表情がおかしくて、思わず吹き出してしまった。
そして、そうか、彼女にとって”大好き”は、かけがえのない、親子のつながりを確認する行為なのだと思った。
私は、三きょうだいの長女である。すぐ下に弟と妹がいて、きっと手もかかったのだろう。両親は共働きで、本当に目まぐるしく働いていた。
「長女あるある」かもしれないが、「お姉ちゃんだから」と言われて、得したこともあれば、損したこともあった。
実のところ、私は母から「可愛くない子」と言われたことがある。
母はもう忘れているかもしれないが、その言葉は長いこと胸に刺さったままだった。
それでも、私も母となり、あの頃の母の姿に、ママ友のような心持ちで共感するようになった。
「あの時は、しんどかったよね」と。そして心からこう思う。「よく頑張っていたよ。ほんとうに、尊敬しているよ」
けれど、もしかしたら私は、いま目の前にいる娘に、あの頃傷ついた幼い自分自身を重ねているのかもしれない。あんな思いを決してさせるまい、という思いもある。
娘をぎゅっと抱きしめながら、「大好き」と言うその瞬間、私自身のなかで、幼かった自分もまた、「大好き」と言われている気がする。
これを書いていて思い出したことが一つある。
昨日、慌ただしく食卓を整えたあと、ふとした会話の中で、「お母さん、すごく頑張ってる」「いちばん頑張ってるよ」と、夫と娘が声をかけてくれた。
そのときは笑って「ありがとう」と返したけれど、いま思えば——この言葉こそ、かつての母が、あの頃いちばん欲しかった言葉だったのかもしれない。
今度、母に伝えてみよう。
娘に教えてもらった、「不意打ち」で。


