今朝、私はだいぶ寝坊をした。
「お腹すいたよ」という娘に「冷蔵庫にパンがあるから食べて」と言ったあと、気づけば、また深く眠ってしまっていた。
「ジュージュー」という音で目を覚まし、台所へ行ってみると、娘がパンを焼きながら、ベーコンエッグを作っていた。
「サラダを作ろうか」と声をかけると、「もうできてるよ!」と机の上を指さした。
てっきり、自分の分だけ用意して食べてしまったのだろうと思っていたら、家族全員分の朝ごはんが、すでに整えられていた。
「じゃあ、テーブルを拭いてくるね」と言えば、キュッと絞った台拭きを手渡してくれる。いつもと役割が逆転していた。
「お父ちゃん、呼んでくるね!」
そう言って、私がいつもするように、半鐘を二回、カーン、カーンと鳴らした。
そして、食卓が完成した。
ナッツをのせたサラダ、香ばしいバタートースト、ベーコンエッグにソーセージ、冷たいお茶。ヨーグルトにはフルーツを添えて、甘酒をかけてあった。
どれも、ちゃんと、おいしかった。
食事が終わると、娘は少し照れくさそうに、こう言った。
「朝ごはん作ったこと、コラムに書いてね!」
思わず笑ってしまった。でも彼女は、コラムに書いてもらいたくてしたのではないと思う。朝から、創作の力が、ふつふつと湧いていたのだ。
「メダカが死んでるよ」
食後にくつろいでいたとき、夫の声が玄関先から聞こえた。娘が名前をつけて世話していたメダカが、水草の影で静かに息絶えていた。
娘は「また、いいところに生まれておいで」と声をかけながら、自らその亡骸を弔った。その後は、水草を整え、水を足し、残されたメダカたちの様子をじっと観察していた。
夕方、娘は麦茶を取ろうとして、足を滑らせて転んだ。
足踏み台の角に右足をぶつけて、しばらく動けずにいた。
みるみるうちに、くるぶしの下が青く内出血し、腫れてきた。
泣きはしなかったけれど、その目が「お母さん、痛いよ」と語っていた。
「これは痛かったね、びっくりしたね」
私は彼女の顔と患部を交互に見ながら、声をかけた。
体を支え、麦茶を注いで渡すと、ようやく彼女は落ち着いた表情を見せた。
足をかばいながらも、あとは普段通りに過ごしていた。
驚いたのは、そのあとだった。
夕食を早めに終えた娘が、ソファに座り、スケッチブックに向かっていた。
さらさらと、緑色のペンが紙の上を走っている。ときおり、じっと考え込むような仕草をしながら。
「あのね、詩を書いたの。ちょっと恥ずかしいけど、聞いて」
はにかみながら、私を手招きした。
「けがした時に見せてくれた、太陽さんからのプレゼント」
そんな一節から始まる詩だった。
幼子の高くて丸い声で読むその詩に、夫も私も息をのんだ。
「恥ずかしいから、詩はコラムには出さないでね」と言われたので、断片だけを紹介したい。
夕暮れどき、お手洗いの窓から見えた空が、あまりに美しかったのだという。
ラベンダー色にグラデーションになった空に、飛行機が「雲を足跡みたいに、ぺたぺたつけていて」、それがまるで奇跡のようだったと。
娘は、痛みのことを忘れるくらいに、その空に心を奪われていた。
「生きるのを楽しもう、すぐ死なないで」
そんな詩の一節に、私はギクッとした。
大げさに言えば、死を見据えたうえでの、命への讃歌のようだった。
朝、初めてひとりで誰かのためにごはんを作ったこと。
可愛がっていた命を見送り、自分の手で整えたこと。
不意の怪我でしょんぼりしながら、それを夕空で昇華したこと。
そのすべてが、詩の中に混ざっていた。
娘は、今日という一日を、言葉として昇華したのだ。泣く代わりに。怖がる代わりに。甘える代わりに。その心を、広く、美しい空に向かって差し出した。
彼女は絵を描くのが好きで、描かない日はないほどだ。なぜ今日は絵ではなく、詩にしたのか、と聞くと、「言葉にした方が、奥深く届くと思ったから」と答えた。
1000日コラムに挑戦する私の背中を、普段の家事をする姿を、彼女はちゃんと見ていた。見ているつもりが、見られていた。
そんなことを今日1日は突きつけられっぱなしで、なんだか背筋が伸びる1日であった。


