月に二度、氏神様へ月詣に行く。龍笛を携えて。
祝詞の後、音色を供えるのがいつからか習わしになった。
この山の家に引っ越して、もうすぐ丸五年になる。月に二度のお参りを重ねれば、荒天で遥拝した日を除いても百回以上になる。四季折々の境内の気配が、自然と脳裏をよぎる。
太夫さんが見えるのは、年に二度の大祭の時だけである。普段、社殿に人の姿はない。祭りの前に掃除のため人が集まるくらいだ。あとは、毎月2回訪れる私たち夫婦に、ときどき子どもが加わる程度である。
年に一、二度、雅楽の師匠が出稽古にいらした折には、必ずこの社殿で笛をお供えしてくださる。それに倣い、私も月詣には必ず笛を携え、音を供えるようになった。たまに、夫も楽箏を抱えて合奏する。
聴くのがただ好きだった雅楽を、演奏側として体験したのは、八年ほど前である。ご縁があって、一本のプラスティックの笛を手にしたのが始まりだった。稽古らしい稽古は、ここ三年ほど。オンラインで、数か月に一度教わる程度の、ゆっくりとした歩みである。
笛に息を入れると、体の内側まで通りがよくなる感じが心地よい。今では、パソコン仕事の脇に笛を置き、合間にひと息吹くのが、日常になった。
これも、山暮らしだから許されることかもしれない。どれほど音を出しても、隣家は山陰に隠れて見えない。猫も慣れたもので、私が吹く目の前で、気にする様子もなく眠っている。
春になると、鶯が山のあちこちで「ホケキョ」の稽古を始める。その声のする方へ、龍笛の音を伸ばしてみると、応えるように鳴き返してくれる。同種の鳴き声のようだがはて?と首を傾げながら鳴いているのだろうかと可笑しい。
夏には、張りのある日差しの中、朝も夕もなくひぐらしの声に360°包まれる。それが、どこかから顕れてくる「音取」の鳳笙の音色のようで、思わず目を瞑ってみたりする。
秋には、キツツキの音が響く。ドリルのように激しい時もあるけれど、まるで鞨鼓のように、トントントントン……と軽やかに刻むこともある。風のない日など、山間に綺麗に響くものだから、大編成の合奏のはじまりを想起して胸が高鳴る。
今はなき黒猫ウニの、長くてまっすぐ鳴き声は、私の唱歌の声と時々ぴたりと重なった。その度に私が驚き喜ぶので、ウニは目をまんまるにして見上げて「何なのよ?」と言わんばかりにまた一鳴きするのが常だった。
動物や自然が発する声や音との境目が、滑らかなグラデーションになっている音楽。面白いなぁと、暮らしの中で実感している。
そんな環境だから、誰に遠慮することもなく、月を見れば、めでたいことがあれば、もちろん神仏にお参りするときも、そして、なんでもない日にも。笛を手に取るようになった。
仕事の合間に、家事の合間に、ふと手が伸びる。もしかすると、私はむしろ、笛の合間に人生を生きているのではないか、と思うことがある。
演奏の巧拙を言えば、まだまだである。それでも、「いとどめでたし」と思えば、ためらいなく笛を奏でる。
そんな私たちに、神前での奉納演奏のご依頼があった。団体名を求められ、「雲中奏楽団」と名乗ることにした。
山の上の仏像工房で奏でることから、「雲中奏楽団」。長く、覚えにくい名である。自分たちでも「ウンチューズ」と略して呼ぶほどだ。それでも、山の中で奏でてきた日々には、この名がいちばん似合う。
造仏の暮らしの延長線上で、自然と境目のない雅楽を楽しみ、稽古している。
真冬の朝、笛筒から取り出したばかりの龍笛は、芯まで冷えていた。吹き始めると、内側からぽっと熱がこもり、音色も次第にやわらいでいく。笛が目覚めたと感じる。
気温が上がり、夫婦で月詣に上がった。いつもは一曲だけ供えるところ、今日は三曲、奏でた。
アイキャッチは月詣の石段にて


