現代造佛所私記 No.263「電動歯ブラシと背中 (前編)」

ちょうど一年前のこと。
本格的な木枯らしが吹き始める直前の一週間、私たちは国の文化財レスキュー事業の一環として、能登半島地震で被災した仏像の応急処置のために能登へ向かうことになっていた。

当時、娘は小学二年生。留守のあいだ、私の実家に預けることも考えたが、ちょうど学校ではかけ算の授業の真っ最中だった。「休みたくない」という娘の気持ちを尊重し、市のショートステイを利用することにした。

不安がなかったわけではない。一人でお風呂に入り、見知らぬ場所で眠る。小さな身体には、大きな冒険である。祖父母の家でさえ、一人で泊まるには覚悟がいる寂しがり屋だ。でも。

「寂しいけど、がんばる」

そう言ってくれた娘の声は、不安気ながらも決意を帯びていた。

ひとつ気がかりだったのは、歯磨きであった。まだまだ仕上げ磨きを必要とするが、施設ではそこまでの支援は難しい。

かかりつけの歯科医に相談したところ、フッ素洗口が第一で1週間程度であれば歯磨きが甘くなっても影響は軽微であろうと助言をいただいた。その上で、おすすめの電動歯ブラシでをご紹介いただき、効果的な使い方を教えていただいた。

その日から、娘の本格的な一人歯磨きの練習が始まった。電動歯ブラシ用のアプリを使い、ゲーム感覚で綺麗にしていく。デバイスを見ながら小さく揺れる肩。その背中を見ていると、胸の奥がふっと温かくなると同時に、申し訳なさも疼いた。

私たちは能登での段取りを確認し、道具の準備を重ねる。その横で、娘はひたむきに歯磨きの練習を続けた。電動歯ブラシの音が就寝前の空気を小さく揺らす。

寂しさや不安を隠さず、ときどき目をほんの少し潤ませながら、それでも娘は「仏像さんのお怪我を治してきてあげてね」と気丈に言った。

出発当日の朝は、いつものようにバス停まで一緒に向かった。いつもより少しだけ、しっかりと長めのハグをした。小さな身体が、私の胸に力を込めて抱きついてくる。互いにきっと思っていた。この温もりと香りを、忘れないようにと。

バスが来た。娘を見送りながら、名残惜しい気持ちが胸に広がる。もっとハグしていたかった。けれど、行くと決めたこと、娘も覚悟したことを思うと、すっと背筋が伸びた。(続く)

アイキャッチは、2024年の文化財レスキューの一環で仏像応急処置に向かう道すがらの様子。能登の復旧・復興を心よりお祈りしております。