現代造佛所私記 No.227「かまどさん」

新米の季節になった。父が田んぼを手放してから最初の秋を迎えた。寂しく思っていたが、思いがけずあちこちからお米をお届けいただいた。袋を開けると、新米の独特の芳しさが鼻をくすぐる。

今朝、とんでもない失敗をした。炊飯器の電源を、炊飯中にうっかり切ってしまったのだ。慌てて入れ直したが、炊飯器は頑として動かない。無表情にエラー表示を示している。朝食の時間まで三十分もない。

迷う暇はなかった。棚の奥から黒い土鍋を引っ張り出す。「かまどさん」である。

独身時代から、私は土鍋でご飯を炊いてきた。最初は萬古焼の一合炊き。あれは小さくて可愛らしかった。この土鍋で炊くという習慣は、子どもの頃の記憶に根を張っている。

風邪で寝込んでいた日のことだ。母が小ぶりな土鍋をお盆に乗せて枕元に運んできた。「これで炊いたら、お粥も美味しくなるんやって」。熱でぼんやりした目に、ツヤツヤのお粥が白く光って見えた。一口すくって口に運ぶ。とろりと熱い汁が舌に触れた瞬間、甘みと香りが体のすみずみまで温かく染み渡っていった。ああ、生きている、と思った。食後、腹の底からじんわりと熱が広がって、生き返るようだった。あの感覚を、私は忘れたことがない。

夫と暮らし始めて間もなく、炊飯器が壊れた。一合炊きではもはや足りない。三合炊きの土鍋を探しに出かけた先で出会ったのが、永谷園の「かまどさん」だった。人気商品で一ヶ月待ちだという。専門店の店員さんが申し訳なさそうに言うのを、むしろ嬉しく思った。待つ時間が楽しみを膨らませる。お店で見つけたレシピ本をめくっては、あれも作ろう、これも試そうと夢想した。

そして黒光りするニューカマーがやってきた日、まずは粥を炊いて目止めをした。そして初めて白米を炊いてみた。蓋を開けた瞬間の、あの湯気である。立ち上る香りの濃密さ。一合炊きより三合炊きの方が、不思議と美味しく感じられる。

白ご飯だけではない。炊き込みご飯、牡蠣ご飯、蒸し野菜。この土鍋は台所の主役として、様々な料理を生み出してきた。気がつけば十年が経っている。黒い肌に細かな傷が刻まれ、それがまた愛おしい。

娘が独り立ちする日が、いつか来る。その時に伝えたい道具がいくつかある。包丁、砥石、そしてこの土鍋。分刻みのスケジュールに追われる日々、炊飯器の便利さに甘えていたが、土鍋もまた、思うほど手間ではない。むしろ、火加減や鍋の中の米たちの音や炊ける香りを”聞く”時間が、せわしない朝に心を整えてくれる。

そうそう、今朝の失敗は、思いがけない発見をもたらした。

エラーの消えない炊飯器に残された米は、高温の釜の中で柔らかくなっていた。恐る恐る口に運ぶと、これが意外に悪くない。いや、悪くないどころか、甘味が強く、別の美味しさがあった。米は懐が深い。扱い方次第で、いくつもの顔を見せてくれる。

土鍋で炊いた新米を見て、夫が「やっぱりいいね」といった。

その顔から、母が運んでくれたあの粥のことを思い出す。喜びの膳、美味しい食卓は、深いところで記憶に刻まれる。そしてまた、誰かに手渡されていく。

新米の季節は、毎年めぐってくる。父の背中を思い、この米にも手間と時間とお心がぎゅっと詰まっていることを思う。土鍋で丁寧に炊くことで、そんなふうに思いを馳せる時間は幸せだ。

かまどさんは、綺麗に現れ、体に染みた水が乾くのを待ちながら、黒い肌を光らせている。