「お母ちゃんのお手て、温かいね。大好き!」
朝、娘と手をつないで、いつものようにバス停へ向かう。山の朝は半袖だとブルっと震えるくらい秋が深まっている。
日陰の小道を曲がった瞬間、柔らかい陽光と金木犀の香りにふわっと包まれた。思わず足を止める。
「わぁ……いい香りだねぇ」
母娘どちらともなく声を掛け合い、娘は目を閉じてすうっと深呼吸をした。九歳の胸に、秋の気配が静かに染み入っている。
ちょうど庭仕事をしていた隣家のご婦人が、立ち上がって声をかけてくださった。
「おはようございます」
帽子をかぶり、ガーデニンググローブをはめた手には、湿った土がついていた。にこやかな表情で、ご婦人は庭の奥を指さした。
「あのススキの向こうに金木犀があるのよ。見える?もう百年ほど経っているそうですよ。昔はもっと大きくてね。剪定されて、今の姿になったみたい」
目線の先には、剪定されてもなおこんもりと丸い緑が見えた。百年という歳月の重みを、その樹は静かに纏っている。
バスに乗り込む娘に手を振り見送ると、そのままご婦人と立ち話になった。
この金木犀の根を張る住居跡には、かつて漢方医が住んでいたという。近隣の自然から薬草を摘み、煎じて薬局を営んでいた。さらに、その奥には豆腐屋があり、ご婦人の家も昔は商いをしていたそうだ。路線バスも通っていて、運転手がこの辺りで休憩をしていたこともあったという。
苔むした石垣の、静かな佇まいを前にする。そこに、かつてのにぎわいの面影を重ねてみる。
「これからまた人が増えることがあれば、そんな未来が戻ってくるでしょうか」
そう口にすると、ご婦人は同意も否定もせず、ただふふっと笑った。その笑みは、懐かしさと静かな希望、諦観との境で揺れているように見えた。70年の人生を経てきた人の、深い笑みだった。
「町の郷土史のコーナーに、そんな昔のことが載っていますよ」
読書家のご婦人はそう教えてくださった。今度、町の図書館に行って、資料を探してみたい。
そのとき、乾いた優しい風がそっと吹き抜けた。金木犀の香りがまた一段と濃く漂ってくる。
秋の気配とともに、土地の記憶が静かに香るような朝だった。


