現代造佛所私記 No.154「和三盆の砂」

太平洋に注ぐ、雲間からの光が神々しい。私たちは、日暮れの海辺に立っていた。まとわりつく湿った潮風が、ぬるま湯のように肌にからみ、じわじわと体を火照らせる。

返却期限を迎えた百年前の本を図書館に返し、その帰り道、夫と娘とで海水浴場に立ち寄った。用を済ませてまっすぐ帰るところだが、今日は、もう少し外の空気に触れていたかった。

潮は引いていて、波打ち際には濡れた砂の上に、色とりどりの石や貝殻がつややかに並んでいた。娘がさっと履き物を脱ぎ、裸足で波へと駆けていく。ふだんなら「靴がぬれるから」「砂がつくから」と止めていたのに、今日はその姿を見てなんとも思わなかった。それどころか、気づけば私も靴を脱いでしまった。

「和三盆みたい」

思わず漏らした。きめ細やかな砂が、むくんだ足先にさらさらと触れる。波で洗われた砂地は、干菓子のような、ほろほろとした硬さと脆さをもっていた。さらに波打ち際の、湿り気を含んだ一帯は、まるで羊羹。足裏がずぅんと沈むたび、甘やかな質感を思わせた。

なんでもお茶菓子に喩えてしまう卑しさを、ここで明かすことを少し恥ずかしく思う。でも、正直な印象だった。

娘は波打ち際に陣取って、夢中で何かを拾い集めている。「ほら、見て!きれい」そう言って手に乗せて見せてくれたのは、丸くてなめらかな石たち。緑、灰色、赤褐色、白……思いがけないほど色とりどりで、濡れた表面はまるで水饅頭のようだった。

波が寄せては返す。その音が、思考の端をさらさらと洗っていった。

ふと思い出すのは、かつて仕事のため長期滞在していたハワイでのこと。
上司のお供でビーチを時々歩いた。上司に請われ、彼女の全身を砂に埋めたことがあった。頭だけを出して、そばにパラソルとお茶を置く。何かの療法のようだったが、私はただそばに座って、ふくらはぎを砂に埋めて、ぼんやりと景色を眺めていた。

陽を浴び、波の音を聴きながら、砂に埋もれていると、不思議な安らぎがあった。少しの可笑しみと、静けさと、砂や潮風に触れる心地よさ。あのときの質感が、足元から記憶によみがえってきた。

娘も、夫も、そして私も、それぞれに波打ち際で静かに過ごしていた。私はただ、質感の異なる砂の上を歩き回っていた。乾いた砂、しめった砂、波が引いたばかりの重い砂——足裏でたしかめながら、砂の音をきくように。

そういえば最近、こういうことに躊躇しなくなっている。以前の私なら、濡れるのも、砂がつくのも煩わしく思っていただろう。けれど今日は、娘のあとを追って、何も考えずに波へ足を差し出していた。これは「変化」と呼べるのかもしれない。あるいは、元に戻ったのかもしれない。あれこれ考える前に、素足のまま歩き出せる、ほんの少しの自由。

濡れた足を、和三盆のような砂でぬぐい、パンパンと払って、素足のまま靴を履く。

帰りの車の中。靴の中で、さらさら、サクサクと、砂を踏むような感触が残っていた。

何も起きていないようで、何かが起きている。そんな余韻を、今夜はしばらくこのまま味わいたい。

足先を包んだ砂のぬくもりも、波の音も、ひとときの心のやわらぎも。