現代造佛所私記No.140「Back to the Basic」

湯気に味噌の香りが乗って、ふわぁっと鼻腔を満たした。

深夜1時。
朝の味噌汁を、前夜のうちに作るのが習慣になった。

出汁に味噌を沈め、菜箸で筋を入れる。顔を近づけると、言葉やイメージの断片でいっぱいになった頭が、ふっと軽くなる。

キーボードの音も、世界のニュースも遠のいて、湯気のむこうに、ただ味噌と出汁の香りだけがある。

狭い我が家だ。すでに眠っている娘と夫が起きてしまわぬように、静かに蓋を閉める。

朝、娘を見送った後、ちょっとだけ玄関先の草を抜く。素手で、くっと力を入れてはスポン。手強い草もいるが、ジリジリ見合った末にスポン。これしきでは、雨上がりの7月の草たちに叶うはずもないが、一応の草引きをする。

娘が帰宅すると、抱き締める。娘は、私の胸に顔をうずめ全身でぎゅっとしがみつく。こちらも全身で抱きしめ、頭や顔や、背中やらを撫でる。

気づけば、朝から夜中までキーボードを打つ毎日。化粧もせず、髪を引っ詰め、着古した格好で、およそ人前に出られぬ姿で、便利な道具に囲まれて。

だけど、今際の際に思い出したいのは、味噌をといたり、家族と触れ合ったり、御仏に向かって手を合わせる、そんな何でもない日常ではないかと思う。

それらは、以前の私には存在しえなかった風景で、いまの私は、まるで“別の時間軸”を歩いているかのようだ。

今の自分にとって、大切なことと、そうでないことが逆転しないように、ワーカホリックな自己への戒めに、今これを書いている。

永源寺143世の篠原大雄老師が「禅の進歩というのは、”Back to the basic”です」とおっしゃっていた。

「昔にかえるほど進歩だと考える。かっこよくなるのではなく、かっこ悪くなること。金持ちになるのではなく、貧乏になること。」と続けていらしたが、つまり虚飾をやめるということなのだろうか、と反芻している。

そう思えば、私の周りの師という師は皆、何かを足す人ではなく、削ぐ人たちだと、はたと気づく。

弓道の範士の先生も、お茶の師匠も、「あぁしなさい、こうしなさい」とは言わない。

「いらないことをしない」という指導をなさる。

それは、ノイズとなる不必要な所作や、虚飾を排除していく、ということ。膨らみすぎた自我や虚飾、役割を脱いで、素に近づくこと。

もちろん、相手の習熟度や性質を見極めてご指導なさっているという前提の上ではあるが。

「怨みにつく」という禅宗に伝わる言葉がある。

雲外雲岫(うんがいうんしゅう、一二四二~一三二四)という禅僧の言葉だ。

「其れ法を嗣ぐ者に三有り。上士は怨みに嗣ぐ。中士は恩に嗣ぐ。下士は勢いに嗣ぐ。怨みに嗣ぐ者は道に在り。恩に嗣ぐ者は人に在り。勢いに嗣ぐ者は己に在り。」宗門嗣法論より

大雄老師によると、「どんな師につくのが良いか、それは恨むほど腹が立つ人物が最上」だそうなのだ。

大雄老師の師匠は、建仁寺派管長を務められた竹田益州老師だ。茶の湯の世界でも、お馴染みの方だが、それはそれは厳しくて、「皆嫌っていた」ほどだという。

歩き方、茶の飲み方、全てに対して怒られ、大雄師が「ぶっ殺してやろうかと思う」ほどの存在だったそうなのだ。穏やかな表情でそう語る老師を見て、驚いてしまった。

しかし、それが良かったのだと、大雄老師は微笑む。反発の心からエネルギーが湧いてきて、「こいつを乗り越えてやろう」と修行に勢いがつくのだと。

さて、修行になったと思えるのは、怨みを買うほどの師弟関係である——というのは実は思い当たることがある。この荒々しく、泥臭いエネルギーが、人の運命を大きく変えることがある。

もちろん、それが正解かは、わからない。ただ、その時期があったからこそ、今の自分がこうして暮らせている、とも思うのだ。

昔、作家秘書として、24時間体制で働いていた頃があった。この時の上司は、あちこちで反発され、少なくない人から恨みを買う人だった。買い物に出た先の店員、友人、スタッフ、顧客……ヒヤヒヤしながら仕えたものだった。

仲間やスタッフが、3年もすると仇敵になるということが続き、随分苦労もされた方だった。

私も、極限まで厳しい環境で仕事をすることになった。だが、どうも鈍かったのだろう。怨むということを知らずに10年ほど勤めたが、さすがに体はついてこれず壊してしまい、やがて退職した。

けれど、あのときに従事したあらゆる業務や、「いろんな人の生々しい自我」を目撃したことは、いま道なき道を歩む私の足元を照らしている。

何より、今仏像工房を夫婦で経営し、子育てしている未来など、あの時体を壊さなければ、知らずにいた平行世界の出来事だっただろう。

その過程は、積み上げたものを捨てることでもあり、文字通りゼロからスタートすることになった。

「Back to the Basic」
つまり、原点に戻る、ということは、単なる懐古主義や過去の踏襲ではない。

究極には、肥大してしまう自我を、削ぎ落とした先にある、仏性なのではないかと思う。

「戻る」というのは、退くことではなく、生き方を洗練させること。

戻る先があるということは、きっと、幸せなことだ。

自然に囲まれた我が家で今日も、常に戻るべき根っこを確かめている。

1000日コラム 夏の特別企画「ことばの種、お育てします」第五話 完
ことばの種「戻る」から、芽吹いたお話でした。