八年ほど前から、わが家の睡蓮鉢には、世代交代をくり返しながら、メダカたちが棲んでいた。
数が増えすぎて、友人に里親になってもらったこともあったが、やがて寿命が訪れ、次第に数は減り、ついにはメダカ不在のまま、今年の夏を迎えた。
ある日、久しぶりに睡蓮鉢をのぞいてみると、水面に、元気にピコピコと泳ぐボウフラたちが、「やぁ、きたよ」とでも言うように浮かび上がってきた。
あぁ、そうだった。そんな季節だった、と気づく。昨年までは、食いしん坊のメダカたちがいたから気にならなかったが、こうもあっけなく水辺の主が入れ替わるとは。
数日後、資材の買い出しに出かけたホームセンターで、「メダカコーナー」に出会った。色とりどりの品種が、整えられた水槽で、軽やかに泳いでいる。1匹150円から、2000円を超えるものまで。まるで市場のようだった。
これまで我が家は、譲っていただいたメダカばかりだった。今年は家族で相談し、初めて購入してみることにした。
娘は、大きな水槽の中から4匹を選んだ。餌も一緒に買い、大事に持ち帰った。名前をつけ、声をかけながら、睡蓮鉢をのぞきこむ日々が始まった。
けれど、4匹はボウフラどころか、餌にも反応せず、数日で1匹が亡くなり、もう1匹は姿を消した。残る2匹も、どこか元気がない。
「そういえば、山のふもとにメダカの専門店があった」と思い出し、立ち寄ってみた。そこには、広々とした水槽に、種類ごとに分けられ、ゆったりと泳ぐメダカたちの姿があった。
価格は、ホームセンターより1匹あたり100円ほど高い程度だったが、メダカたちが置かれた環境はまるで違っていた。
水槽のそばでは、店主が黙々と手入れをしている。購入の意思を伝えると、驚くほど丁寧に、飼育方法を教えてくれた。
「水は一気に替えずに、塩素を抜いた水で少しずつ慣らしてくださいね」
「今は繁殖期です。卵を見つけたら、別の容器に移してあげて」
「餌は、稚魚用が望ましいけれど、手で崩して与えれば市販のもので大丈夫ですよ」
ホームセンターで購入したメダカが死んでしまったことを伝えると、「それは寿命でしょうね」と、気の毒そうに応じてくださった。
そして、これから我が家に来るメダカたちを紹介してくれた。5月に生まれた「緑光(りょっこう)」と「オロチ」という品種だそうだ。オスメスの見分け方まで、手元の個体で丁寧に教えてくれた。
娘が命名を発表すると、にっと笑って、その名前で呼んでくれた。
私たちはただ、ボウフラ退治のために来たつもりだったが、店主の語り口と、メダカへのまなざしに触れて、その動機がどこか恥ずかしくなった。
娘は、家族構成を聞かれると、猫やメダカも数に入れるほど、彼らを本気で大切にしている。そのまっすぐな姿勢に、大人の私たちがハッとさせられることがしばしばある。
今回も、娘と、店主に教えられた。
彼らはメダカを「商品」としてではなく、「いのち」として扱っていた。
日々に追われていると、つい、人間の目線で世界を見てしまう。それは、命に対する、偏りや傲慢さにもつながる。
そして、この小さなメダカたちは、人の手で改良され、人の世話を前提として生まれてきたことを後で知った。自然界には戻れない。なんの因果か、我が家にやってきた以上、最後まで大切にお世話しようと思う。
フランスの哲学者であり、社会学者のブルーノ・ラトゥール氏の言葉を、味わいたい。
生命体は、私たちの行為に対し、脅威の速さで反応を返し、それがまた私たちの反応を引き起こしています。それを私たちは学んでいます。
京都賞記念講演より
7月のある日やってきた、数匹のメダカたち。
それは、命を預かる者としての、心の在り方、そして、互いに干渉し合う命としての関係を、改めて問い直す、小さな転機でもあった。


