ぼんやりと、両目に焦茶色の楕円形が映っている。
それは、黄土色の平面の真ん中に、ちょこんと居座っていた。
私は胡座をかいて、手のひらを重ねて座っている。折り畳んだ足と手を背骨にぶら下げ、城満寺(徳島県)の住職である田村さんのお導きに従って、丈夫な坐布を通じて、さらにその下に敷かれた畳、地面への接続を感じていた時だった。
体は壁のほうへ向け、目を開けたまま、全体を見る。
いつもは何も考えずにしていたその視線の納め方。この日はちょっと具合が違っていた。いつになく、全体を見るのが難しかったのである。
なぜなら、私のちょうど目の前に、例の焦茶色の楕円形があったからだ。この楕円形は、棚板の節である。
人間という動物の習性なのだろうか、どうしても、直径5センチほどの節を目は捉えたがった。
たった一つ「対象」があるだけで、こんなにも全体を見るのが難しくなるのだと、難儀もし、面白くも思った。
思えばこの体はいつも、見たいものを”見たいように”見ている。見なくて良いものも、つい見てしまう。
そこで、目を閉じてみたとしても、残像のようなものが、浮かんでは消え、浮かんでは消えする。
体というものは、心というものは、面白いものだと思う。
「そんなに節を見たいか?」
そう聞かれたら、よほどの節マニアでない限り、きっと「いえ、特には」と答えるだろう。
だけど、どうしてこんなに私の目は、何の変哲もない、この節を見たくてしょうがないのだろうか。
その考えを追いかけることはしなかったが、振り返ってみるとおかしくてしょうがない。
やがて、坐禅終了の合図があり、少し痺れた脚をほどいて立ち上がり、掌を合わせた。
そして、経行(きんひん)が始まった。
静かな堂内を、すり足でゆっくり進む。衣擦れの音、ほんの少しの履き物の音。坐禅の空気の密度を保ったまま、参禅者たちは沈黙のまま歩く。
一歩一歩、呼吸に合わせて進むので、呼吸が深まるごとに足の運びはゆっくりになる。しゃ手の中には、ほんのりと汗が滲んで、さっきまで痺れていた脚も循環が戻っていた。
その頃には、もうあの節のこともすっかり忘れて、沈黙の喜びに満たされていた。
最後に、再び単(坐禅をする一人分のスペース)に戻ったが、節に目をやることもなかった。目に移ったかもしれないが、全く気を取られることがなかった。
後になって、じわじわと驚きが蘇ってきた。
それは、人生のどこかでも、同じようなことが起きているのかもしれない。自分の目が、あんなにも「対象」を求めていることを、知っておいた方がよいのだろうな、となんとなく思う。
無自覚であれば、きっと知らないうちに、いとも簡単に、本当に見るべきものから目が逸れてしまうだろう。
そういう点でも、仏像や、神棚、スッと心を自由にしてくれるなんらかのシンボルを持つことは、大きな意味があるのかもしれない。


