現代造佛所私記No.130「野薔薇の家」

短い梅雨を経て、屋根の上を見上げると、野薔薇の新芽が、空に向かってぐいと手を伸ばしている。その若々しい淡い緑の、なんと屈託のないことか。

この野薔薇は、もともと実家の裏庭に咲いていたものだ。母から20cmほどの小さな一枝もらい、玄関脇の「さしかけ」の柱のもとに挿し木した。

「百発百中よ」と母は言っていた。
どうやら、母も、何処かからひと枝もらって、挿し枝したらしい。

その言葉の通り、野薔薇は土を選ばず、痩せた土地にもすぐに根付いた。いつの間にか、私の背丈に追いつき、「さしかけ」を這って、気づけば屋根の上にも花を咲かせるようになった。

今年は特別に梅雨の雨が少なかったが、それをものともせず、伸び続ける逞しさ。たくさんの蕾をつけては、惜しむ間もなくはらりとはらりと散っていくさまは、美しく、どこか容赦のなさもあった。

茎の伸び方が凄まじいので、夫が屋根への負担を案じ、少しだけ枝を剪定してくれた。

そういえば、この野薔薇の『さしかけ』の下で、私たち家族は季節ごとの風景を見てきた。

机を出して友と軽食をとったり、月夜に笛を奏でたり。娘はブランコを漕ぎ、猫たちは虫を追いかける。どれも、特に気にもとめない、ありふれた日常だった。

それが、今思い出してみると、一つ一つの光景が胸をくすぐって、少し切ない。

私たち夫婦は、15歳でそれぞれの実家を出た。夫は仏像彫刻の修行へ。私は高校の寮へ。

以来、就職や進学、結婚、出産、仕事の都合で、いくつもの引っ越しを重ねてきた。

常に、「外から来た人」としての視線を受けながら生きてきた。

今もよく、「まだここにいますか?」「次はどこへ?」と訊ねられる。「いつまで経っても根無草だなぁ」そんなふうに話したこともあった。

だけど、この野薔薇は、何か別の在り方を見せてくれている。

何処かからやって来て実家の裏庭に根を下ろし、また遠い家のさしかけの下にやってきた。ひと月も経たずに根を下ろし、まっすぐに空へ向かい、花を増やし続けている。

この野薔薇は、人が去っても、毎年花を咲かせているかもしれない。そうだ、そんな植物が、この地には既にあちこちにあるのだった。

どこから来たかは、重要ではないかもしれない。次にどこへいくかも心配しなくて良いかもしれない。

野薔薇を見ているとそんな気がしてくる。