「こんなこと言っていいのかわからないんですが」
と前置きしてその方は続けた。
「無宗教なんですけど、仏像を家に置きたくて」
ここ数年、そんなご相談が増えてきた。
引け目を感じながら打ち明けてくださる方に、私はいつも「どうぞ」と思う。
お付き合いのある香木店や製茶園でも、宗教的な文脈とは切り離されたサブスクサービスや、抹茶スイーツのオンラインショップが随分前から人気だ。
ライフスタイルをより洗練させるために、心身を豊かにするために、日本の伝統文化、仏教のメソッドが取り入れられている。仏教や「道」の作法の恩恵を受けているな、と思う方も多いのではないだろうか?あるいは、無意識のうちに、それが日々に溶け込んでいる場合もきっとたくさんある。
SBNR(Spiritual but not religious)という言葉がある。
特定の宗教には属さないけれど、精神的なものを大切にしている、という生き方をする人のことだ。
看護師時代、問診の時は多くの人が「宗教はありません」とおっしゃったことを思い出す。だけど、クリスマスをお祝いしたり(キリスト教の病院だった)、お正月やお盆に一時帰宅もされるし、病院食が配膳されると、合掌して召し上がっていた。そうと知らずに、SBNR的な生き方をしている人のなんと多いことだろう。
「えっ?お寺じゃなくても仏像って作ってもらえるんですか?」
つい最近も、そのように驚かれた。仏像は仏教に関わるプロしか関わりがない、と思っていらっしゃる方が、思ったより多いようだと最近感じている。
だけど、思えば、日本人と仏像の出会いは、仏教徒ではない人からはじまった。
日本書紀には、仏像を初めてご覧になった欽明天皇が「仏の相貌端厳し」と述べたと記されている。信仰の話ではなく、その姿への純粋な感動だ。宗教的背景を超えて、仏像には人の心に働きかけるものがある。
あるドイツの木彫家が、世界中の木彫作品を見た時の感想を話してくれたことがある。「日本の仏像が、非常にCalmだった。だから日本の仏師の元で学びたいと思った」と。
弓道を嗜む施主さんは、こうおっしゃった。「祈りの対象が身近にあることで、日々の生活に精神的な安らぎをもたらしてくれます」。イスタンブールのモスクの壁画模様の置物と並べていて、「楽しんでいます」とも。
「長くお祀りしていただけたら嬉しいけど、仏像をどう扱うかは、施主様が決めること。」
夫はそう言う。彫り終えた仏像を送り出す時、仏師はそう思っている。今の仏教の文脈でどのように扱うのが適切かは、お伝えするが、信仰の深さを問わない。その人がどう向き合うかは、その人の自由だ。
仏像は、美術品として、信仰の対象として、そして誰かのごく個人的な日常の空間にもおわす。
仏像のおわすその地点、それがどこであれ、誰の前であれ、Calmで共鳴する磁場を作るものと思えば、私たちの仕事は宗教という枠組みを持ちつつ自由に世界と関わることができる。
現代において、仏像は精神的なインフラになり得るだろうか。信仰の有無に関わらず、そこにあることで人の日常を静かに支えるような。
小さな私たちの想像を超える仏像の可能性を信じて、これからも吉田は鑿を振るい、私は仏像と人の物語を語り続けよう。


