現代造佛所私記 No.389「忘れ物回収人—寿司 (前編)」

「お降りの際は、傘などのお忘れ物にご注意ください」

地下に潜った列車の窓に、春の雨が雫になって散る。ガタンゴトンと一様に人を揺らし、最終列車が滑り抜けていく。

慰労のにじむアナウンスが、紗枝の疲れ切った体に沁みた。ふと見上げた瞳に、夜の気配を閉じ込めた水滴が映り込んだ。

車内には、湿った空気と眠気、宴席の高揚が入り混じっていた。吊り革が揃って揺れるたび、紗枝はハッと目を見開いた。ついうつろになる。

納期が立て込んで、なんとか終電に走り込んだ金曜の夜だった。会社の最寄り駅では満員だった車両も、終点に近づくごとに余白を増していく。出入り口の隅に立っていた紗枝は、空いた席に座ろうとして、酔った男性と軽く接触した。

「あぁ、すみませんねぇ」

顔を赤らめながら頭を下げた男性に罪はない。紗枝は、無言で座席に着いた。

仕事帰りらしい人たちは皆、疲れた顔でうつむき、あるいはすっかり眠りの世界に入り、天井に口を開いている男性もいる。

いざ日付が変わるその時間まで、起きている人のなんと多いことか。紗枝も今日は、そのひとりだった。

ぼんやりと座席に身を預けると、そのうちウトウトしてきた。

(あとひと駅…)

紗枝は目を閉じた。次の瞬間。

「次は、終点〜」

(しまった!)

紗枝は飛び起きた。バッグを両手で抱き上げ、思わず立ち上がる。降りるはずだった駅を、二つも乗り過ごしてしまった。

静かに閉まるドア。ゆっくりと遠ざかるホーム。駅名の表示や下車した人たちが、あっけなく後ろへ流れていってしまった。寝ていた男性、酔っ払った男性も、別人のようにしゃんとして窓の向こうでエスカレーターに乗り込んでいた。

今頃駅前のコンビニで、ワインでも物色していたはずなのに。

胸の奥にジリジリと怒りが沸き起こった。タクシーはつかまるだろうか。あぁ、いらぬ出費が腹立たしい。目を閉じ、大きなため息をついた。

怒りを通り越し眉を八の字にして、ドアの上の路線図を見上げた、そのときだった。

目の端で、この辺りでは割と有名な、鮨屋の紙袋をとらえた。

ピンと立った持ち手と、少しシワの入った底のあたりに、誰かが持ち運んでいた痕跡がある。座席の端に寄りかかるように置かれていた。

誰かがうっかり起き忘れたのか。接待の土産だろうか。

ろくに夕食にあり付けなかった紗枝は、思わず口元をキュッと結んだ。

ガタンゴトン。列車は規則的な音をたて、終点そして倉庫を目指してひたすら走る。車両には、紗枝と、座席に横たわっていびきをかく60代くらいの男性の二人だけとなっていた。

紗枝は、優先席に腰掛け、ためらいつつ、その紙袋をのぞいた。カラフルな握り寿司が、包装紙の端から楽しげに顔を出している。もしかしたら、見知らぬ誰かの大切な家族へのお土産だったのかもしれない。

終点で駅員さんに届けたら、私もコンビニでお寿司を買って帰ろう。紙袋を持ち上げた。

――その瞬間。

痩せた水滴を散らす窓の景色が、ぐわんと溶けた。

毛穴という毛穴から、何かが滲み出るような感触に、紗枝は目眩を覚えた。(続く)