村の伝承では、八百年以上前から、この森は願いの手紙を食べてきたと言われていた。郷土史にほんの数行、それからタキばあが登場した新聞記事に、チラッと書かれているくらいで、詳しいことはわかっていない。
しかし、その昔、祖父の洋治は、夏休みでやってきた大樹ら孫たちを夜の森に集めて、こんな昔話をした。懐中電灯に照らされほろ酔いの洋治の顔は、半分異界のもののような、何かに憑依されたような、幼心には持て余す程の迫力を以て心に刻まれている。
——浦島太郎の話より、こじゃんと昔っから、この村では大人らは願いを和紙に書いてなぁ、大楠さんへ納めよったが。森はその手紙を食うて願いを預かったんよ。お供えする手紙、おまんらやったらなんて書く?昔は、村ごっとの誓いやった。五穀豊穣、国家泰平、この地をよぉく治めます、森と和します、いうてなぁ——
大樹も、夏休みごとに、従兄弟たちとわいわいと願いを書いて、「胃袋」に収めにきたものだった。ある日、村でかくれんぼをしたときに、こっそりウロに入って、そのまま眠ってしまったことがあった。村の太夫であった、祖父の洋治から大目玉を食らってわんわん泣いた。
大樹が森の「胃袋」に近づくと、風が止んだ。
葉擦れが消えた。蝉の声も、沢の音も、鳥の気配も、遠のく。誰かが音響機材でフェーダーを下げているかのような、滑らかさだった。キーンと耳鳴りがして奥が詰まった。大樹はごくんと唾を飲み込み、足を止めた。
ウロの中に、おびただしい手紙の束が折り重なって三山ほどになってた。土を被り、インクを滲ませ、白、茶色、青、ピンク、無地の封筒、イラスト入りの封筒、ハガキ、メモの切れ端のようなもの、人形にマジックで何か書いているようなものもあった。
「ふぉーーー」次の瞬間、ウロが低く鳴った。
腹の底から押し上げてくるような、地鳴りに似た声だ。大樹は無意識に眉を顰めた。熱気と腐臭がのった吐息のような湿り気の中に、樟脳の匂いをかろうじて残している。マルはくんくんと地面に鼻を擦り付けていた。
そばに寄ってみると、捲れた樹皮の割れ目に、黒く滲み出たものがある。大樹はプラスティックグローブを右手にはめ、人差し指で黒い部分をこそげた。油のような、しかし油とも異なる粘度の高い感触が残る。左手で煽ってみると、酸臭と、燻ったような匂いが、鼻の奥に絡みついた。
大樹は、グローブを裏返して丸め、ポケットに突っ込むと、手のひらを幹に当てた。固く、乾いた木肌の奥に、かすかな熱を感じ取る。病人の額に触れた時のような、内側から滲む炎症のような。
「しんどかったな」
声に出したつもりはなかったが、ウロが「ふおぅ」と、低く短く鳴って答えた。大樹は、軽くポンポンと木肌をあやすようにたたいて、バックパックを下ろした。
マルはバックパックに鼻を近づけ、再びふんふんと大楠の周りをたどり始めた。その時、小さくザッと地面を蹴る音がして、マルはバッと体をいからせて唸った。(続く)


