タキばあの家を出た先のT字路を北へ進むと、九十九折りの一本道がある。それを登りきるとこんもりとした森がある。これが、「楠久(くすく)の森」だ。
道の脇には、苔むす大小の石たちが、パズルのように組み合わさって石垣を成していた。大樹は思わず車を止めた。
所々崩れ、木が倒れているところもある。誰かがその倒木を道脇に寄せた痕跡があり、大樹は安堵した。その向こうにまるで巨人の階段のような、段々が連なっていた。棚田の跡だろう。粘土質の土に雑草が膝丈まで伸び、農作物の気配はない。
大樹は、スマートフォンで石垣や倒木、棚田にシャッターを切った。棚田を下から指で数えてみる。一段、二段、三段——五段。昔は人々が耕作していたのだろう。大樹は往時の様子を想像してみるが、昭和初期の日本のどこかの、棚田とは全く関係のない記録映像のイメージが浮かぶだけだった。
一番上の段の脇に、柿の木が一本、肉付きの良い葉をざわめかせていた。青々とした実をたわわに育み、重そうな枝を揺らしている。倒木を移動させた誰かが、収穫するのかもしれない。
かつてはこのあたりに三百世帯が暮らしていたと、タキばあから聞いたことがある。山の木が主なエネルギーだった時代の話だ。新しいエネルギーが現れ、交通手段が変わり、生業が消え、世帯ごとに山を下りていった。村の祈願祭は二年に一度、三年に一度、六年に一度になった。作法が少しずつ省略され、少しずつ忘れられた。
集落跡は、タキばあの家以外には、朽ちかけた空き家が三軒、邸跡と墓地跡が点在する。祖母がたった一人で守り続けた最後の時間のまま、止まっているようだ。
五十年前、タキばあが四十二歳の時、集落には夫の洋治と二人だけが残った。山暮らしをしながら家の周りで生姜を育て、隣集落から呼ばれては、季節ごとに軽トラで田畑の手伝いに回り、生計を立てた。
山を降りた人々は、年に一度の祭りには戻ってきて、そこそこ賑わった。しかし、それも一人減り、二人減り、最後はタキばあと洋治二人だけで祭りをするようになった。
森へ通い、年に一度は料理を拵え、酒をふるまい、森の奥にある「胃袋」に手紙を食べさせた。
洋治が逝って十八年。その後はタキばあと、ハナの二人暮らし。何年か後に雑種のマルが加わった。タキは山を降りるまでの4年間、マルをお供にシニアカーで森へ通ったらしい。
ある時、地元の新聞がタキばあの暮らしを取材し、森の「胃袋」のことを小さく取り上げた。それをきっかけに、森へ手紙を持ってくる人が現れ始めた。
森までの道は舗装されているが、ひび割れていたり、落石が転がっていたりと、気が抜けない。崖側のガードレールも、途切れたり折れたりしている。しかし、その代わりに木々が道を囲んでいた。落ちることはない、と大樹は自らに言い聞かせた。
携帯はとっくに圏外で、ラジオもノイズだらけだ。カタンぽちゃん、カタンぽちゃん——文箱と洗面器が立てる音と、ポリタンクの水音がやけに耳に触った。
太陽と雲が近づいてくる。その時、ひらひらと白い何かが目の端に映った。一頭のアゲハ蝶が助手席のバックパックの上に止まっていた。大樹が窓を開け、そっとアゲハを外へ促すと、むわんとした夏の熱を帯びた湿気と共に、湿った土、草木の匂い、蝉や鳥の声が大樹の顔にまとわりついた。
間もなく、森の入り口が眼前に現れた。石灯籠が立っている。アゲハがひらりと出てフロントガラスを横切り、木々に紛れて見えなくなった。その視線の先に、木切れで作った看板があった。赤いペンキはかすれていたが、「ゴミもちカエレ」と書いてある。
森に一歩近づくと、涼やかな楠の香りに、鼻腔が満たされた。稜線まで楠が連なる、母なる森。大樹は、森に向かって一礼すると、バックパックを背負い、ポリタンクを運び出した。
「誰や」
ナタを手にした老齢の男が姿を現した。麦わら帽子の下に、黒々と焼けた肌がテラテラと光っていた。大樹はたじろぎながらも、男の顔に見覚えのある影を確かに感じとった。
「松浦のおんちゃん?僕、楠本…おぉ!マル!」
大樹は男がつれている犬に声をかけた。
「なんや、おんし、タキばあくの孫か」
「はい、そうです。大樹です」
松浦は、二十歳の頃に村を離れたが、この山を五十年見続けてきた男だ。時々辺りの手入れに戻っては、タキばあの買い物を引き受け、緊急時には駆けつけもした。足元には、雑種の犬が一匹、尻尾を振りながら大樹を見上げている。
松浦と大樹は、しばし話した。ここが無住になってからのこと、大樹の仕事のこと、大阪での暮らし、父親の体のこと、互いにデバイスの写真を見せ合いながら話した。倒木を片付けたのも、看板を書いたのも松浦だった。
「まぁおまんのことは、だいたいお父から、聞いちょったぜ。けんど、遅かったにゃぁ」
「すんません、ほんまはもっと早うにこんと行かんかったがですけど」
「それはしゃあないきに。おまんのおとうも、ここへ戻りたかったろうに—ん、すまん」
大樹が軽く俯いて唇を一文字に結ぶのをみて、松浦はフイッと顔をそらしてナタをしまった。(続く)


