現代造佛所私記 No.364「手紙を食べる森 (1)」

大樹がその集落跡に着いたのは、朝の八時だった。高知市から車で40分、山道を登ってやってきたのは、父方の祖母の家である——と言ってももう六年ほど空き家になっているが。

日焼けで脱色された縁側に腰かけると、幼少期に遊んだ景色が眼前に重なる。まだ溶けきっていない冷凍ペットボトルを傾け、スポーツドリンクを一口流し込むと、汗が目に垂れた。

慌ててメガネを外し、首にかけたタオルで目を押さえる。メガネの鼻パッドの汗を拭って掛け直し、もう一口水分を補うと、ふーとため息をついた。

四方から蝉時雨を浴びながら、ひらひらと舞う蝶の影を追う。間もなく、この縁側も南国の日差しに逃げ場なく晒されるだろう。大樹が立ち上がると、拳と膝裏から、汗が流れ落ちた。

タキばあが逝って四十九日。
その少し後に、ハナも後を追った。三毛猫のハナは、タキばあが十九年一緒に暮らした猫だ。両親は立て続けの喪失がやはりこたえているようで、なんとなく覇気がない。大樹はしばらく実家にいることにして、勤め先の大阪の食品分析の会社に夏季休暇と有給をもらった。三十二歳、部の主任として長期休暇は申し訳なかったが、事故で体に不自由のある父、介護と会社勤めを両立する母が、二つの命を看取った話をすると、森田部長はすぐにハンコを押してくれた。

休暇もあと二日という日、盆も過ぎた弔いの節目だった。大樹は、タキばあが一人で暮らしていた集落の家へ、六、七年ぶりに足を踏み入れることにした。

早朝の天気予報によると、日中は残暑が厳しい上に、夕方は強い雨だという。大阪に戻れば、もうしばらくは来れないだろう。今日しかないと、雨具も携え早めに出発したのだった。

しかし、いざ来てみると、人が去ってしまった集落の圧倒的静けさに、立ちすくんでしまった。日がな一日電子機器に触れている大樹にとって、全身を包み込むようなノイズレスの空気は侵略的でさえあった。

タキばあの家に着いた時には、あたりはまだ夜気を含んでいたが、今やじりっと鋭い陽の気に支配されている。

遠方の空にもくもくと増殖し始める入道雲を背に、柑橘の木が三本、敷地の隅に並んでいる。タキばあが丹精したものだ。小夏の淡黄色が丸く光っている。

そこにアゲハが群れていた。一頭ではない。数えきれないほどの羽ばたきが、木漏れ日と見まごうほどの影を作っている。

20年ほど前の、小学校最後の夏休み。体調を崩した祖父を見舞った際も、そうだった。アゲハ蝶が乱舞するのを、皆でスイカを食べながら見た——甘い心持ちで眺めていたが、じゅわっとかすかに喉元に込み上げた苦味にハッとした。

天気の崩れまで猶予がないのに、気づくと何者かにずり、ずり、と時間の概念を吸い上げられ、なすべきことが抜け落ちていく。じり、と肌が焼かれる感覚にふたたび我に返った。

縁側のアルミサッシを挟んで、薄暗い室内に写真立てが二つ見える。一つはタキばあと孫たちが並んで写っている。小学生の大樹も端でピースサインをしている。もう一つは、タキばあと祖父である洋治が並んだ写真だ。

不意に、写真の中のタキばあが、大きく背伸びをした。大樹を手招きしながら口をパクパクと開けて何やらしゃべっている。

「ガタンッ」

大樹はサッシを開けようとしたが、施錠されていた。小走りで玄関に周り、父から預かった鍵で入ると、スリッパに履き直して縁側に向かった。カビと埃の匂いが溜まった屋内は、外より涼しかった。

「はあ〜あぁ、きたかね」

茶でも淹れようか、というような声色だった。

「ばあちゃん、元気かぇ。遅うなってすまんね」

大樹はサッシを開放しながら応じる。ぬるくも新鮮な風がフワッと流れ込んだ。大阪で就職してかれこれ10年近く、「こういう機会」を逸していたが、体は覚えていたようだ。タキが続ける。

「押し入れに一式が入っちゅう」

孫との再会に何の感慨も挟まず、ぽんぽん指示を下す。

「水をようさん持っていき。洗面器も。ほれから…」
「水道、使えんがやない?」
「裏の沢の水を使い。ほれと——」

沢の水。山の奥から流れ下り、集落の東の川へ注ぎ込んでいる、住民たちの大事な生活用水だった。タキばあに連れられて、野菜を洗いに行ったものだ。いつも冷たくて、底まで透き通っていた。

「聞きゆうかえ?あんまり時間ないき、大事なことゆうで」

タキばあの声が、一段低くなった。

「病人におかいさん(粥)を食べさせるように、やさしゅうにやり」

短い間があった。

「ほんで、ハナの写真、横へ置いてくれんろか。頼んだきね」

タキばあはやっと笑みを見せ、胸元で手を振った。

「ほいたら、もういぬるき。大樹もはよういによ。」

そういうと、タキばあは、かちりと元の姿に戻った。写真の中で、孫たちに囲まれ笑っている。

「ハナの写真、横に置く……」

大樹はスマートフォンを取り出し、親指でスイスイとメモをとった。額の汗を拭いながら、一間向こうの花籠の意匠が施された襖を捉えると、ふかふかとたわむ畳の上を慎重に進んだ。襖を引くと、旧型の掃除機と杉材の箪笥が並び、その横にアルマイトの洗面器が立てかけてあった。デコボコ具合から、タキばあが「森」で使っていたのかもしれない。杉の引き出しを上から順に開けてみると、三段目に塗りの文箱があった。

続けて、ポリタンクを持って裏の沢へ向かった。

水は冷たかった。沢は苔と草が増えた以外、何も変わっていなかった。(続く)