今朝、娘に「祝日だし一緒にお散歩しよう」と誘ったら、「家でお菓子作りたい」と言われて断られた。それも彼女の意思。子どもだって一日に何千もの決断をしている。
ケンブリッジ大学のBarbara Sahakian教授らの研究によると、人間は1日に最大3万5,000回の決断を下しているという。
朝起きて何を着るか、何を食べるか、メールにいつ返信するか。電気をつけるかどうか。お茶を飲むかどうか……。
分解してみれば確かにそれくらいあるだろうと納得する。けれど、この数字に触れて、考えてしまった。その三万五千という大小の決断の「質」に、かなり無頓着でいるなぁと。
特に、スマホ、パソコンを通じて、デジタルの世界で泳いでいると、意思決定のほとんどが、意思決定とも言えない、「反応」になりがちであることにゾッとしてしまう。
通知が来れば無意識に注意がそちらに向かうし、メッセージが届けばリアクションボタンを押す。
自分で行動を選んでいるつもりでも、外からの刺激に反応しているだけだったりする。しかも厄介なことに、アルゴリズムは私たちの好みを学習し、デザインは注意を奪うように作られている。行動はかなり条件付けられている。
デジタルが悪いと言いたいわけではない。私も多大な恩恵を受けている。遠くの笛の師匠のお稽古も受けられるし、必要な情報にスピーディにアクセスできる。障害のある方や地方に住む人にとって、デジタルは世界を広げる大切な手段でもある。
ただ、デジタルを”使う側”にいたいと思う。でも現実は、使われている面も大きい。
先日、公的な資料を作った際、ざっくりとしたリサーチをAIに任せた。すると注力したいことに取り組む時間的余裕が生まれて、目が啓かれる思いがした。これまで何時間もかけたような資料作りが、以前よりも質高く、五分の一くらいの時間でできた。
キーワードを練ったり、文章を推敲したり、効果的な色使いを考えることなど、もし全部ゼロからやっていたら、この「深める」時間に到底たどり着けなかった。
ただ、この効率の裏側には、データを提供した人々、AIを訓練した人々、そして環境負荷がある。それを知りながらも、私は使わずにいられない状況にある。この矛盾も抱えながら、目まぐるしく発達していくデジタル環境を生活の中に迎え入れていこうと思う。
私たちは仏像工房を営んでいる。
仏像は、施主様や関係者様にとって大切な、特別な信仰の対象だ。仏師は、その思いや背景に共鳴しつつ、客観的で自律的な状態を保って彫る。そこに至るエネルギーを最大化するために、他の仕事(仏師自身でなくてもよい業務など)をどう効率化するか、リソースを配分するかを、経営者として判断する。
手探りの工房経営も、もうすぐ10年目を迎える。もうそれなしでは成り立たないほどに、DX化を進めてきた。
私は今、高知の山の中を歩きながら、このコラムをスマホに音声入力しながら書いている。同時に、雪の後の冷たい、少し湿った風が頬を撫でている。すぐ傍を流れる小川のせせらぎ、木々が揺れる音、土の匂い、鳥の声が聞こえる。ふと、南天の赤い実が目に入った。緑の葉に赤い丸い実。かわいい、と本能的に引きつけられる。
ここで面白いことに気づく。「あ、今、引きつけられているな」と気づいた瞬間、その反応の一連のサイクルが途切れる。その瞬間、ホッとする。
さらに歩いていると、畑仕事をしている隣人に声をかけられた。スマホの使い方を訊ねられる。「ありがとう!畑の大根もキャベツもようさん(たくさん)食べてえいきね」と言われた。
デジタルがある生活と、自然が一緒にある生活。その二つは対立するものではなく、よりよく生きるために、どう意思決定していくかということなのだと、隣人に手を振りながら思う。
本能的な反応と、それを追いかけてくる論理的な思考の間で、自分に何が起きているかに気づくこともできる。そこに小さな自由が生まれる。といっても、気づいても変えられない構造もある。個人の努力だけでは解決しない問題も多い。
これは、時間と環境に恵まれた私だから言えることかもしれない。それでも、自分なりの余白の作り方を探すことはできる。それは朝5分早く起きることかもしれないし、デバイスの通知をオフにすることかもしれないし、紙の本を開いてその匂いや手触りを味わうことかもしれない。
その小さな積み重ねが、結局は「自分の人生を生きたかどうか」ということにつながるんじゃないか。冬の空を見上げながら、そんなことを考えた。


