——ガタンゴトン。
列車の走行音で我に返ると、紗枝は、出入り口の隣に立っていた。ぼやけた視界の真ん中で、吊り革の揺れが、ぴたりと止まって見える。バッグを両手で抱えたまま、いつの間にか眠っていたようだ。
周りには、疲れた顔でうつむき、あるいはすっかり眠りの世界に入り、天井に口を開いている男性がいる。さっきまで乗客は二人だったのに、人が増えている。
向かいの窓に、雨が打ち付けている。夢を見ていたのだろうか?紗枝はバッグからスマートフォンを取り出し、時間表示を確かめた。
23:30。
停車した駅で、さっきぶつかったはずの酔っ払いの男性が乗り込んできた。紗枝は軽く目を見開いたまま、その男性の顔から目を逸らすことができなかった。
ごくりと唾を飲み込む。
紗枝は(疲れているんだ)と自らに言い聞かせ、空いた席に座ろうとした。が、少しの間踏みとどまった。すると、酔っ払いの男性が「と、と、と」とコントのようによろけた。
列車が減速する。ブレーキの音が、静かに響く。
(——今度は帰れる)
紗枝は、吊り革に捕まって目を閉じる酔っ払いを凝視したまま、座席に腰を下ろした。バッグを持つ手には、鮨屋の紙袋も握り込まれていた。梱包紙ごしに、ほんのりと温い。
(待って、このお寿司は確かに終点前にあそこの優先席で…)
そう思ったときだった。
進路方向の連結部から、男性が現れた。30〜40代くらいだろうか。白いシャツ、細みの黒いパンツ、深緑色のコート。色白の肌に、両耳の小さな蒼い陶器製のピアスがカチリと光っていた。鼻筋のスッと通った、瞳の色素の薄い青年だった。
疲れ切った乗客とはまるでまとう空気が異なる、実在感があるようでないような青年だった。
青年は、ゆっくりと車両の中を進行方向と逆側に進み始めた。周りの乗客は、それぞれの世界に耽り、気にもとめない。
紗枝は、青年からサッと目を逸らし、スマートフォンを覗き込んだ。減速する列車。駅名を告げるアナウンス。——間も無く降りる駅だ。
(帰れる!)
荷物を持ちかえ、紗枝が立ちあがろうとした時、
「――そちら、お忘れ物ですね」
後から、声がした。振り返ると、あの蒼ピアスの青年が気配もなく立っていた。
「お預かりします」
穏やかだが、有無を言わさぬ圧があった。紗枝は黙って、寿司の入った紙袋を差し出した。青年がそれを受け取る。コートの内側に、そっと収めた。
次の瞬間、体がふいっと軽くなった。
「お忘れ物のないよう、ご注意ください」
青年の声と、車内アナウンスが、重なった。
紗枝は、開くドアをするりと抜け、ホームに降り立った。黄色い線の内側に立ち振り返る。
青年の姿はもう見えなかった。ドアが閉まり、列車はゆっくりと加速していく。
濡れた窓がわずかに光を反射しながら、遠ざかっていった。
ICカードをタッチし、改札を抜ける。柔らかい雨粒が頬を軽く弾く。傘を開いて一歩、一歩と踏み出すと、少しずつ体の確かさが戻ってきた。足音も、アスファルトをしっかと捉えている。
コンビニの明かりが、雨の向こうに見えた。
そのとき——腹が、鳴った。


