「あぁ、なんていいお顔されてるんでしょう」
涙を拭いながら、何度もそうおっしゃるお客さま。その横で、私も目が潤んでしまう。
手作りのお仏壇に、使い込まれたお経。ご主人様のご位牌、やさしい笑顔の遺影。今思い返しても、涙が滲んでくる。さまざまなご事情の中で、お心のこもった弔いをされてきたことが、ヒシヒシと伝わってきた。
そのお仏壇の最上段中央に、新たに白木の観音様が奉安された。
講演がきっかけで、ご縁をいただいた女性から、仏像のご相談をいただいたのはほんの五日前のこと。驚くほどのスピードで、小さな観音様の開眼と御安置が決まった。
「仏像は、いくべきところを自分で決めるんですよ」
そう語る人に、これまで何人も出会ってきた。今回のご縁も、まさにその言葉の通りだった。
この観音さまは、誰に頼まれたわけでもなく、吉田仏師が十年ほど前に、木曽檜で造像したお像である。東京から二度の移転を共にし、工房でじっと時期が熟すのを待っておられたのだろう。
お客さまには、お身体のご事情があった。そのため開眼の法要は、懇意にしている和尚さまにお願いし、私が名代として立ち会うことになった。
お昼前、ポカポカと陽のさすお寺の境内に足を踏み入れると、「こちらです」と本堂の方から和尚さまのお声が聞こえた。
影がささっと小走りに玄関に移動したかと思うと、衣擦れの音とともに和尚さまの笑顔が現れた。
開眼とは、仏像に魂を入れる儀式、と説明される。その辺りの専門的なことは、わからないこともあるけれど、感じるのは「私たちの目が開かれる」という意味もあるのではないか、ということだ。
手際よく法要の準備が進められ、小さな観音様が中央に据えられた。にわかに胸が高鳴ってくる。
やがて、和尚さまが、白木の観音さまを香煙の上でそっと捧げ持つ。合唱礼拝。そして私も一緒にお経をお唱えした。
和尚さまが、観音様をお迎えされる女性の経緯を聞いて、観音様のことや、弔いについての小冊子を持たせてくださった。
開眼された観音様を、薄葉紙でお包みする。活きた仏像というのだろうか、やはり開眼前とはこちらの身も心も構えがやや異なってくる。
ホッとして須弥壇を見ると、改めて気づいたことがあった。
「小さなお仏像がたくさんいらっしゃいますね」
ご本尊の両脇にいらっしゃるさまざまな小仏像について、和尚さまが穏やかに話してくださった。
「この仏像らは、施主様が亡くなられて、祀る人がいなくなった、という理由でお寺で引き取られたというケースがほとんどですね。弟子筋のお像だったり、何かしらのご縁があって預かっていて、前はもっとたくさんあったんだけども、しばらくすると『ぜひこの仏像がほしい』という人が別に現れて、それぞれの場所へ行きました。」
思いがけないご縁が熟し、それぞれの人が喜んでお連れするのだという。
世の中には、オークションで販売されたり、打ち捨てられたり、お焚き上げされる仏像もある。このように、お寺が一時預かり所となって、次のご縁につながって、適切な法要を経て旅立つこともある。工房で眠っていた仏像が、ある日突然縁を得て、開眼されることもある。
今回の観音さまについても、和尚さまは「もし後々のことを案じられるようであれば、お寺でお引き受けします」と言ってくださった。
日々の弔いにおいて、仏像は大切な存在である。その一方で、終活という現実もまた、静かに並行して進んでいく。その両方を見据えることは、とても大切なことだと思う。
こうして、手厚い法要を受け、観音さまは新しいお住まいへと移られた。
手を合わせるお客さまの横顔に、言葉にならない思いが込み上げては目を潤ませた。手を合わせて頭を垂れた。
言葉にならない思いを、仏像とお経、そして仏壇というしつらいが、引き受けてくれること。そして、それがどれだけ人を助けてくれるか。
私はそのことを、改めて教えられていた。
アイキャッチは、開眼法要中の様子(撮影許可をいただいています)。


