現代造佛所私記 No.310「仕事初め」

仕事初めの朝がやってきた。

大晦日から三が日にかけても、実際には仕事を手放してはいなかったのだが、区切りとして、本日を「仕事初め」とした。

新たな気持ちで、神棚にお供えをし、祝詞を奏上する。

家のあちこちに座す仏さまの前では、香をたき、経をあげる。

古い日本語であったり、異国の言葉を音写したものであったり。日常ではまず口にしない、不思議な音の連なりが、体の奥と家の中に響き、溶けていく。

意味をすべて理解できているわけではない。それでも、お唱えを続けているうちに、心の中に残っていたささくれのような断片が、つるりと剥がれていく。気づけば、凪いだ心が現れてくる。すごいなぁ、と素直に思う。

計画は立てる。けれど、未来のことはわからない。恐れすぎては何もできないから、せめて祈りながら足を踏み出す。そんな日々を、私たちは生きている。

そんな人生を歩く私に、神職さまやお坊さまが授けてくださった教えの一つに、神棚や仏像を前に祝詞やお経を声に出してお唱えするとよい、ということがある。

それは子どもの頃から見てきた日常の風景で、特別なことではないはずなのだけど、その「方法」以上に、その言葉を授けてくださった先達のお心に触れたこと、そのお心を手を合わせるたびに思い出せることが、途方もない果報なのだと今は思う。

さて、吉田仏師と、新作の像の仕様や、修理の概要について整理しながら、一年のスケジュールを確認していく。

打ち合わせを終えると、今度はメールの返信に、思いのほか時間を割くことになった。

工房には、神社仏閣からだけでなく、個人の方からのご相談も届く。

ご家族の供養のために。
祈りの場にふさわしい象徴として。
会社の霊性のシンボルとして。
子どもたちの未来のために。

皆さまそれぞれに事情を抱え、それぞれに、仏さまと紡ぐ人生の風景を持っておられる。

ここ数年は、海外からのお問い合わせも珍しくなくなった。

四国の山奥にいても、国境を越えて、仏さまを大切に思う人とつながれる時代である。インターネットやSNSという文明の利器への驚きと、不思議な感覚は、いまだ拭えない。

年末に届いたある外国語のメッセージの中に、「busshi」という言葉を見つけたとき、私は思わず読み返した。

翻訳されずそのまま使われていることに、遠い異国の人の「造像」への確かな意志を感じ、胸を打たれた。

職業名というより、信仰と技、時間と身体を含んだ営みとして、この仕事を捉えようとする姿勢。日本のお寺が身近とは言えない土地に暮らしながら、なぜこの人は、私たちに辿り着いたのだろうか。

「開眼(Kaigen)」についてのご相談もあり、メッセージでの対話は続いている。

私が向き合っている事務室の液晶は、未来を想像する場であり、世界中どこからでも瞬時に言葉が届く、効率と即応が求められるコックピットのような場所だ。

一方、道具と木材が並ぶ作業場に立つと、私たちは不意に、千年という時間の流れの中へと放り込まれる。

工房には、昔と現在と未来が、同時に流れている。きっとそれは今も昔も変わらない。けれど、現代の造仏の現場には、現代なりの役割があるのだろう。

今年もまた、国内外を問わず、こうした一つひとつのご縁に応えながら、造仏という営みを続けていけたら嬉しい。

造ったり、直したり、お話をしたり。ときに奏で、茶をたてながら。

今を生きる人の祈りに、かたちで応え続けること。
その波のような反復の中に、時代の輪郭も、いつか浮かび上がってくるのだと思う。

アイキャッチは吸江寺(高知市)にて。読経について具体的な助言をいただいた折に、お出しいただいた手作りの桜茶。