不動明王立像の開眼と奉安を終え、少し時間が経った頃、施主さまから一通のメールが届いた。
法要の折に撮影した写真を受け取ったこと。そして、あの日のコラムを読んでくださったこと。
読み返すたびに、これまでの経過を思い出させてくれる、素敵な文章だと、ご夫婦で感動してくださったという言葉が綴られていた。
その一文一文を、吉田仏師と私は、噛みしめるような気持ちで読み進めた。
「これは私だけが感じていることかもしれませんが」という、控えめな前置きとともに、お像を迎えてからの変化が記されていた。
ご自身のこと、奥様のこと、お子さまたちのこと。家庭の中のこと、仕事のこと……。少し変化があったように思う、とのことだった。
何かと言い表せないが、お迎えして数日、いつも思い、感じている――そう続けられたあと、こう書かれていた。
「その中でただ一つ、言えるとすれば、日々良い方向へ向けていると思う事です」。
まだまだ、感情として穏やかな時ばかりではない、それでも、良い方向へ向けていると思えるようになっている、と。
正直な吐露と共に、希望の言葉が光った。
そう、仏像をお迎えしたからといって、何かが劇的に変わるわけではない。
けれど、人が立ち止まり、その足元を確かめ、向きを整え直すための「よすが」になることはある。Tさんの言葉は、そのことをとても誠実な形で教えてくれていた。
私はこれまで、「私にとって仏像とは?」と問われたとき、「行くべき方向性を指し示してくださる存在です」と答えてきた。Tさんの言葉は、その思いを、さらに一段深いところへと導いてくれたように思う。
最初にご連絡をいただいたのは、二年ほど前のことだった。四人のお子さまが、力を合わせて生きていけるように。その願いを、不動明王というお像に託したい――そんな切実な思いが、言葉の端々から伝わってきた。
御衣木加持の日。ご家族でノミを入れ、木の地肌に触れた時間。暗い堂内で、慎重に、厳かに、祈りを木に刻んだあの表情。
今夏には工房まで足を運んでくださり、子どもたちの笑い声が、川面に弾んだ。
そして、この晩秋の開眼の日。像は、祈りをその器に受け、ご自宅へと迎えられていった。
造仏の仕事は、像を納めて終わりではない。むしろ、そこからが新たな始まりなのだと、施主の方々とのやり取りを重ねるたびに思う。
四季を通じて、木がわずかに動くこともある。光の入り方や、湿気によって、風合いが少しずつ変わっていく。必要に応じて手を入れ、見守り、また次の季節へ、次の世代へと送り出されていく。
そうして仏像は、人とともに、長い時を刻んでいく。
「これからの人生、家族とともに不動明王像とともに、私の人生最期の日が来るその時までともに進んでいこうと思います」
メールの最後に記されたその言葉を読んだとき、胸の奥が熱くなった。思い出すTさんのお姿が、揺るぎないお不動様のお姿と重なった。
こうしてご縁をいただき、大切なお像を製作させていただけたこと。そして、その後の日々について、こうして言葉を寄せていただけたこと。
工房を預かる者として、これほどありがたいことはない。
T家の皆様のこれからの日々が、穏やかで、健やかでありますように。
合掌低頭。


