現代造佛所私記 No.276「師走朔日の茶の湯(後編)―空間と律動」

美しい所作を目指し、稽古を重ねる日々。

その傍らには、いつも師匠の静かな眼差しがある。

いつも驚きと尊敬の念をおぼえるのだが、師匠はたとえ別の弟子と話をしていても、点前で起こるほんの少しのずれも見逃されない。そこにいつも、特殊能力を見るような思いがする。

「今、お茶碗寄せなかったね」「今の早すぎね」「ちり打ちはもっと右で」

声はいつも穏やかで笑みを含んでいて、必要なところだけを必要なだけ調えていく。叱責も比較もなく、ただ身体の“基準”を揃えてゆく。

定規で測るのではなく、目算によって、心地よさをたぐり”よい具合”を掴んでいく。数字ではなく、身体の奥に宿る“測り”を育て使っていく、そんな風に身体性へとひらかれていくプロセスが、なんとも楽しい。

畳の幅や角、縁の位置を目安に、自分や道具の座標を定めていく。その測り方は、茶の湯の規矩術と呼びたくなる、美しい数学的な宇宙へと通じている。

空間に宿る秩序と、自分の身体がピタッとする瞬間は、空間と一体になる愉悦を教えてくれる。それをまた、茶友と分かち合えるシステムも素晴らしいと思う。

点前はすすむ。

じっくりと流れが立ち上がる、まるで空に文様を描くような四方さばきの手つき。帛紗が起こす微風。

濃茶を練ったあと、茶筅を引き上げたわずかな時間に、濃茶の“とろり”を落とす見えない重力。

茶杓や釜の蓋から、ぽとりと落ちる一滴を待つ程よい「間」。

あるべきように流れ、行き交うその律動。その緩急を自ら生み出し客人と心通い合わせるまで、何度でも稽古を積み重ねていくのだろう。

この数学的・物理的な世界が、茶の湯の洗練と合理性、その上に重ねられる情緒性との調和。茶室が宇宙空間にたとえられるのも、わかる気がするなぁ、と今日の稽古をしみじみと味わった。

師匠は、いつもにこやかで、どことなく淡々としている。総合芸術としての茶の湯の世界の全容を、私はまだわかっていないけれど、師匠はその最終的な舞台を見据えて導いているのが伝わってくる。

身体の奥深くに、奥義へ地続きとなる「基準」を植え付けてくださっている、そんなふうに思う。

師走とは思えぬ温かさに、蚊がふわふわと飛んでいた。外の季節は迷っているようであったが、稽古場の道具組は新年を寿ぐ取り合わせで整っていた。

花の開花もずれ込んでいるというが、稽古場は暦にそってひと足先の季節へと移ろっていく。

たっぷり二時間、整えられた稽古場で、規矩に従い、型に身を委ねる時間は、私にとって、四季の豊かさを忘れずに掬い取るためのかけがえのないものになっている。

師走朔日の稽古の幸せを、ここに記しておく。

アイキャッチは、昨年春に内々で執り行った茶事の時の様子。私も、吉田仏師も、客人も、皆で代わりばんこに点てて楽しんだ。