現代造佛所私記 No.260「舞台袖の温度(前編)」

本番前の舞台袖は、黒光りする機材に囲まれて、どこか硬質な空気が漂っていた。高い天井から吊るされた暗幕が、あちこちで交わされる段取りの声を吸い込んでいる。

その向こうでは、照明の下で舞人や演奏者たちの音が行き交い、稽古の一節が聞こえてくる。あと数十分で開演。少しずつホールに「本番」の気配が、雪のように静かに降り積もっていった。

MC役の私は、原稿を小声で読んだり、舌の運動をしたりしていた。喉の渇きを覚えて紙コップに手を伸ばしたとき、そっと声をかけてくださる人がいた。フリーアナウンサーの大黒久美子さんだ。

「少し温かくした方が喉に良いですよ」

そのお言葉には、声と向き合ってきた長い年月が滲んでいた。紙コップのスポーツドリンクに、ポットから白湯を注ぐ。立ちのぼる湯気を眺めていると、なんとなく緊張がほぐれていくのがわかった。

総合MCの大黒さんと私は、同じ場所に控えることになっていた。明るく、颯爽とした大黒さんの存在は、それだけで私を安心させた。

本番までに原稿は整えたものの、発音やアクセントに迷いが残る箇所がいくつもあった。出演者の方々に読みを確認してまわる。「山崎」は”やまざき”か”やまさき”か。客演の先生方の名前も、敬称をつけるときとフルネームで呼ぶときで、微妙にアクセントが変わる。曲名も、普段は略して呼んでいるものを正式名称で読むと、言葉の重心が別の位置になったりする。

そのひとつひとつを尋ねる私に、大黒さんが大きく頷いてくださった。

「それは、とても大事なことですね。確認してくださってありがとうございます」

その一言で、さらに心が軽くなった。気にしていたことは、ただの心配性ではなかったのだ。

さらに大黒さんはおっしゃった。「高知のお客様なら、土佐弁のアクセントで読むほうが自然に届く場合もあります。でも、標準語に寄せたほうがよい場面もあります」

同じ言葉でも、誰に向けて放つかでアクセントが変わる。舞台の温度と客席の空気によって色を変えていく。なんて繊細な技なのだろう。その一端を、目の前で教えていただいた気がした。

やがて、開演のブザーが鳴った。

(後編へつづく)