現代造佛所私記 No.259「包丁式と雅楽の祭典」

高知県須崎市で催された「包丁式と雅楽の祭典」。今回、私は演奏ではなく、司会という役目を預かった。

舞台袖にいると、暗幕の隙間から煌めく舞台が、まるでフェルメールの絵画のように浮かび上がって見える。光の粒子が音と混ざり合い、空気が震えている。その繊細な響きに、ただ魅入られていた。

神楽や舞といった、古くから伝わるものを守ろうとする営みとは、どこか色合いが違う。ここでは、この町から世界に誇れる新しい伝統を生み出そうとする意志が脈打っていた。主催者の方々の、静かだけれど揺るがない気迫が、暗がりの中でもはっきりと伝わってきた。

その志に呼応するように集われたのは、元宮内庁式部職楽部主席楽長の豊英秋先生、安斎省吾先生、池邊五郎先生。そして愛知県を拠点に活動される主韻会(柴垣治樹代表)の皆さま。こうした方々と同じ空間に身を置けたことは、ただただ光栄としか言いようがなかった。

四條流包丁式の方々の立ち居振る舞いにも、深く心を動かされた。舞台でも楽屋でも、その所作は静かで高潔でいらした。研ぎ澄まされた刃物のような佇まいの向こうに、長い修練の日々が透けて見えるようだった。地元須崎から参加されている若い方の、謙虚で澄んだ眼差しも忘れられない。

舞台というものは、演者だけでは決して成り立たない。一日半、袖にいて、そのことをしみじみと感じた。

音響や照明のスタッフは、ほとんど息をするように連携していた。進行管理の方々が即座に情報を交わし、舞台全体を支えている。そのさまを間近で見ながら、プロフェッショナルというのは、こういう人たちのことを言うのだと思った。

総合司会の大黒久美子さんからも、多くを学ばせていただいた。司会前に飲むものの温度ひとつにも理由があり、事前確認の段取りにも意味がある。音響との細やかなやりとり。そして何より、スタッフの方々へのあたたかな気配り。その一つひとつが、舞台を支える見えない柱になっていた。

出演者とスタッフ。そして客席最前列で、この舞台を見守る責任をしかと引き受けていらした須崎市長と高知信用金庫理事長。その場にいた人、すべての呼吸が重なり合って、ひとつの舞台が立ち上がっていた。ああ、美しいものというのは、こうして成り立つのだと思った。

舞台袖から聴く雅楽は、また格別だった。不思議で妙なる響き。どこか遠い昔から流れてきたような、それでいて今ここに確かに在る音。この響きが、日本中で永久に鳴り続けてほしいと、切に願わずにはいられなかった。

夢のようでありながら、同時に背筋が伸びるような一日。
この舞台の煌めきを、ここから受け取った喜びを、どうかそのままあなたと分かち合えたらと思う。

終演後、楽屋で労ってくださった高知信用金庫の山﨑理事長が、ポツリとおっしゃった。

「高知の文化に風穴を開けられた気がする」

その言葉に、どこか胸が透くような思いがした。ああ、この舞台はそういう意味を持っていたのだなぁ、と。

楽しく、有意義で、深い余韻の残る一日だった。