現代造佛所私記 No.255「段取りという旅」

多くの時間を、これから迎えるいくつかの「本番」に向けた段取りに費やした一日だった。

開眼法要、雅楽演奏会のMC、現地での応急処置、それから娘の研究発表。それぞれに、まだ見ぬ人たち、まだ知らない場所が待っている。

やがて訪れるその時を思い描きながら、机の上で段取りを組んでいく。これは地味な作業のようでいて、不思議と旅心に近いものがある。

いただいた各所からのメールやチャットを整理して、スプレッドシートに配列する。パソコンの画面に地図を広げ、移動時間を見積もる。ナビにはない道もある、工事中の道もあると聞いて、余裕をもって予定を組む。

必要なものをひとつずつ書き出していくと、想像を重ねるたび、未来の「その時」が少しずつ像を結んでいく。

今日は、いつもの出張物品に加えて、天気予報を見て雨具を追加した。冷え込むと聞き、ホッカイロを買い足すことを手帳に書く。そうそう、預かってくださる方と猫たちが出来るだけ快適に過ごせるよう、お気に入りのおもちゃも出しておかないと。

小さな支度の積み重ねが、次の準備物を思い出させてくれる。こうした時間が、まだ見ぬ現場での安心につながる。

本番は、ほんの数時間や数日のこと。

けれど、その時間をより豊かに、なめらかに通すための準備は、ずっと長く、深く続いていくものだ。びっしり書き込まれた手帳を見つめながら、思わず「ふぅ」とため息が漏れた。

それにしても、全体をコーディネートしてくださる方々は、本当にすごいと思う。より大きな段取りを組み、本番の成功への道筋を描いている人たち。より大きな責任を背負って、全体を見渡している。

私の荒削りな段取りを、さらに丁寧にチェックしてくださる師匠や、現地で調整をしてくださるコーディネーターさんがいて、こちらもまたありがたい。自分ひとりでは、何ひとつ本番にたどり着けないのだ。

段取りという「本番への橋」があるとしたら、私もできるだけ、しっかりした橋をかけたい。その橋の上で、少しずつ本番の空気を感じ始める瞬間が好きだ。

いまの私は、インターネットの恩恵で、仕事でも旅でも、かなり正確な段取りを立てることができるようになった。

実際に行った人の声を探し、画像や映像でその土地の様子や過去の舞台を覗くこともできる。まるで、現地に行く前に一度、オンライン上でリハーサルをしているようだ。

けれど、そんな手がかりがなかった時代の旅人たちはどうだったろう。

そういえば、私の十代のころでさえ、まだ助手席で紙の地図を開いていた。それよりもっと遠い時代、旅人たちはどんなふうに旅支度をしたのだろう。

噂をたよりに、風の向きや星の位置を読み、限られた紙片に地図を描き、想像に胸を高鳴らせて、あるいは当て所もない心細さを抱えて歩き出したのかもしれない。

期待を上回る感動もあれば、逆に、「こんなものか」とがっかりしたことだってあっただろう。けれどその触れ幅こそが、きっと今を生きる私たちにはない、人生で指折りの大きな大きなインパクトだったに違いない。レビューの雪崩の中で、私たちが手放してしまったものも、きっとある。

遠く離れた土地に向かって、まだ見ぬ人々や風景に思いを寄せながら、心の中で何度も段取りを繰り返す。外から見れば、机の前に座っているだけの姿。けれど、頭の中では未来の本番に向かってフル回転で走り回っている。

古の旅人と、本番に向かう自分の旅支度を重ねてみれば、なんとなく心が踊る。

段取りは決して退屈な作業ではない。それは、まだ見ぬ時間に向かって、着実に橋をかけていく、旅の始まりなのだ。​​​​​​​​​​​​​​​​