今日は少し、内省的すぎるかもしれない。けれども、書いてみることにした。
普段なら、なんでもなくやり過ごせる。けれども、ときどき、同じことがヒリヒリと敏感に触れてくることがある。
ここ数日は、まさにそんな時期だった。ちょっとしたやりとりがぐっさりと刺さり、ささいな言葉が胸の奥で滲みる。心の皮膚が一枚剥がれて、外気にさらされているような——そんな感じ、といえば伝わるだろうか。
ここ数ヶ月、不測のトラブルがあり、消耗しつつも、急ぎの案件に対応し続ける日々が続いた。そこへ娘の風邪を少しもらったのか、ホルモンの作用か、蓄積した疲労もあるのか。全部が少しずつ重なってしまったのかもしれない。「それくらいのことで」という言葉も、痛みを矮小化されるようで、堪える。
体がときどき怪我をするように、心も知らない間に傷を負うことがあるのだろう。
どうもおかしいな、と自覚したのは、昨日、宅配便を出しに窓口へ行ったときだ。どうしたわけか、何度書いてもミスをする。住所が途中で途切れる、宛名が違う、郵便番号が違う。受付の職員さんが「これ、多分違ってます」と、遠慮がちに、でも優しく指摘してくださった。あぁ、どうも疲れているなぁ、おかしいなぁ——そう思った。手が、自分のものではないようだった。
そんなときは、そんな自分をそっとしてやることにしている。重大な決断はしない。ただ「休んでいていいよ」と、心の安全な奥の方へ送り出す。体も、少しスローペースに過ごす。
毎日、やらなければならないことが津波のように押し寄せてくる。けれど、できるところから手をつける。いつまでも「閉じない輪っか」があると——未完了のまま宙に浮いた仕事があると、その間じわじわと消耗していく。そのことを、何度も経験して知った。
だから、やるべきことをベビーステップへと噛み砕いて、必ずその日のうちに完了させる。それを優先する。頭の中を、アプリがいくつも立ち上がっている状態にしない。小さな工夫だけれど、この時期には特に大切な工夫だ。
手帳を見て、to doをすべて完了にできると、深く安堵する。ああ、今日一日が終わった、と安心して眠りにつける。
私たちはもしかしたら生涯、「閉じない輪っか」をいくつも抱えて生きているのかもしれない。
だけど、ほんの数ミリ足を前に出せただけでよしとする。小さな階段を一段上がっただけでよしとする。
「そこにいるだけでいい」と思えるような母親の心を、自分自身にも注ぐ。
そして、願わくば、そのような状況にある誰かに、優しくいられますように。


