八十年という歳月は、人の一生を超えるほどの長さだ。 自分の寿命かそれ以上の月日の前で、忘れてはいけない、いつ起こってもおかしくない戦争というもの。
間もなく、二年かけて当工房で製作した阿吽の麒麟像の「神宝奉納祭」が、薫的神社(高知市)で執り行われる。
この像は、戦後八十年という節目に向けて、平和への願いを形あるものとして未来へ伝えようと、薫的神社の中地宮司が発願されたものだ。
二年前、終戦の日が近づくよさこい祭りの真っ最中に、高知県遺族会役員とそのご家族にノミ入れしていただいて、吉田仏師が製作を引き継いで完成させた。
古代中国で「泰平の世に現れる」「平和の象徴」とされた瑞獣、麒麟。
製作に費やした二年、残念ながら世界は平和になったとは言えない。けれど、そんな時こそ、意識的に暮らしを選びとらねばと思う。
令和七年八月二十二日の読売新聞(高知版)の高知版の記事を開いたとき、冒頭の言葉に心を射抜かれた。
「必死」とは。
戦中の軍隊においては、文字通り「必ず死ぬ」ことを意味したと。その一文に衝撃を受けた。必ず死ぬと知りながら、十八歳から二十五歳の若者たちは第721海軍航空隊の「桜花」に乗り込んだ。
「桜花」という美しい名を与えられたその飛行機型の兵器には、脱出装置がなかったという。記事冒頭に、「1.2トンの爆弾を抱え、自力で飛べず、着陸装備もない」という目を疑う言葉が連なる。
未来があるはずだった若い彼らが抱えた恐怖と覚悟を思うと、ギューっと胸が締め付けられ、突っ伏したくなるような気持ちになる。
当時指揮を執った岡村基春大佐は、高知県安芸市の出身。
記事に載っていた写真には、海軍報道班員の取材に笑顔で応じる大佐の姿があり、その隣には川端康成と見られる姿も写っていた。山岡荘八も同時期に鹿屋基地に駐在していたという。
文人たちの眼差しが交錯するその場で、容赦無く必死の特攻へと送り出される青年たちがいた。
記事には「死後五年後に除籍された記録に、家族の葛藤が伺える」ともあった。死を受け入れられず、もしかしたら生きているかもしれない、そうあってくれたなら、と願い続ける気持ちと、直視せざるを得ない現実。そのはざまで揺れ動く家族の姿を思うと、涙が込み上げる。もし私が母や姉妹、友人だったなら、その苦しみはどれほど切実なものだっただろう。
(2)へ続く


