日曜日の朝、遅めの食事を済ませると、身体が重くなり横になった。
しばらくして目を覚ますと、腹部に洗い立てのバスタオルがかけられ、部屋は静かに薄暗くなっていた。私は深い眠りからすっきりと戻ってきた。障子とふすまを閉め、場を整えてくれたのは娘だった。
その心遣いがうれしくて礼を言うと、彼女は少しはにかみながら「Yちゃん自身が、明るいところでテレビを見たかったから。お母ちゃんのためじゃないの」と返した。
感謝を受け取らないようにするその律儀さに、胸を打たれた。
彼女は自分の欲求を満たそうとしただけだった。けれどその行為が同時に、私の休息を支えることにもなっていた。
「自分のため」と「誰かのため」は、必ずしも相反するものではない。むしろ日常のあちこちで、重なりあい、響き合っているのかもしれない。
自分が快適に過ごす工夫が、誰かの安心につながる。
誰かを思ってした行為が、自分自身の満足や喜びに返ってくる。
利己と利他の境界は、思う以上に柔らかく、曖昧で、豊かだ。
人は「自分だけのため」に生きることも、「誰かのためだけ」に尽くすこともできない。両者が織り重なり、互いの領域を行き来しながら、関係を紡ぎ、社会を形づくっている。
そういえば夢うつつに、ふすまを閉める音を聞いた気がする。
「何をしているのだろう」と思ったような気もしたが、すぐにそのまま深みに沈み、夢の底を漂った。水の中に身をゆだねるような、久しぶりに訪れた安らかな眠りだった。ここ数ヶ月は味わっていなかった感覚である。
だからこそ、この出来事は私の中に鮮やかに残っている。
娘が自分を満たすためにした行為が、同時に私をも満たした。その重なりのなかに、人と人との関わりの本質を見た。
仏教には「自利利他円満」という言葉がある。自らの行いが自分をも他者をも満たすとき、人は自然と調和に生きていると説く。
その教えの片鱗を、私は娘の行為のなかに確かに見たのだった。
(本文の雰囲気に合わせ、AIで生成したイメージを添えました。)


