吉田仏師は、刃物研ぎの達人だ。だが、私は彼に研ぎを習ったことがない。結婚以来、アイキャッチ画像にもある吉田の後ろ姿を見ながら、見ようみまねで台所の包丁を研いできた。
今朝、サラダ用のトマトを切ろうとして、刃が思うように入らなかった。
忙しさにかまけて後回しにしてきた包丁研ぎ。今日こそやろうと決め、砥石を水に浸す。
ところが日中は雪崩のように仕事が押し寄せ、研げたのは結局、夕食づくりの最中だった。
照り焼きソースを煮込むわずかな合間、あらかじめ水につけておいた砥石を取り出す。「シャ、シャ、シャ」「シャラシャラシャラ…」。菜切包丁、果物包丁、三徳包丁、立て続けに無心に刃を滑らせた。
山奥に暮らし、パソコンで世界とつながる今の生活は、何をするにも効率とスピードが求められる。電子レンジや時短レシピの恩恵も受けているが、その中で、頭を空っぽにして手を動かす時間は何よりの贅沢だ。包丁研ぎは、そんな贅沢のひとつである。
肉眼では見えないミクロの世界で、刃が少しずつ生まれ変わっていく感触。研ぎ終えた後、トマトに刃がすっと通る瞬間の心地よさは言葉にしがたい。効率と精神性が同居しているのが、この作業の魅力だ。
しかし、この時間を持つ人は減っている。1999年には92%の家庭が包丁を研いでいたが、近年は約半分。しかも「砥石で自分で研ぐ」家庭は16〜30%にとどまるという。
代わって普及したのは簡易シャープナー。私は未経験だが、水不要で短時間、電動式なら力もいらない手軽さが支持されているそうだ。その一方、刃の寿命を縮める可能性も指摘される。
砥石での研ぎは、刃の角度や力加減などコツが要る。だが、シャープナーでは得られない切れ味と耐久性の両立ができる。本格的な技術を持つプロの研ぎ直しサービスに一定の需要があり、「新品のように生まれ変わった」と絶賛されるのも、その価値ゆえだろう。
調べてみると、研ぎの頻度も変わったようだ。かつては「月1回」が3割、「半年に1回」が4分の1。今は「切れ味が悪くなったら」研ぐ人が多い。専門家は砥石なら月1〜2回、シャープナーなら週1回を勧めるが、実際にその通りに行う家庭は少ないだろう。私も切れ味が悪くなって研いでいる口だ。
興味深いのは若い世代の意識だった。20代の砥石利用率は1割程度と最低だが、「いつか自分で研げるようになりたい」と答える人は半数を超える。包丁さばきの上達を望み、効率や見栄えを重んじる傾向も強い。簡便さを選びつつも、将来「本物の切れ味」や手仕事への憧れに向かう可能性を秘めている。
包丁研ぎは、料理を楽にし、美味しくするだけでなく、心を整える時間でもあると今日はお伝えしたい。
刃物と向き合う集中は、不思議と気持ちを落ち着かせる。「研ぎ澄ます」という言葉が、心の動きをも指すのも頷ける。
今日、私が包丁を研いで得た喜びは、刃が切れるようになったことだけではない。
結婚前、吉田と何度も合羽橋を歩き回り、愛着のある台所道具を揃えた懐かしい日々。その道具たちを自分の手で世話できる暮らしの手応え。無心になれるひととき。
自己流の包丁研ぎではあるが、そのささやかな充足が、私の暮らしを支えてくれている。
参考
1.帝京女子短期大学「包丁の手入れの実態について」(1999年調査)
2.リサーチパネル「【デイリサーチ】自宅の包丁は研いでいますか?」(2017年調査)
3.Lisalisa50「『包丁』についての調査」(2016年調査)
4.貝印株式会社「包丁 | キッチン用品 | よくあるご質問」(2024年調査・FAQ)
5.フェリシモ「包丁のお手入れ、どうしてる?」(2018年調査)
6.味の素パーク「包丁の切れ味を保つには?包丁マイスターに聞いた『シャープナー』活用のポイント」


