現代造佛所私記No.155「半分、秋」

季節の移ろいにふと気づくように、デジタルの世界の中でも、相手のちょっとした変化を感じとる瞬間がある。

たとえば、今日がそうだった。

暑さもセミの声も、まだ夏そのもの。だけど、ふと見上げてハッとした。家の前の小川の向こうに立つ柿の木の葉が、半分は青々とした艶は残しながら、もう半分を黄色と赤に染めていた。

夏だ夏だと言っている私を横目に、自然は秋支度を始めていたのか。立ち止まって森を見回すと、緑の下に黄色い葉を増やしているもの、咲き終えて静かに土に還ろうとしている草、そして何匹ものトンボがついついと飛んでいる。

私は、時々忘れてしまう。季節はいつも、次の季節を孕んで絶え間なく変わり続けていることを。

そして、まったく無関係に思えるデジタルの世界にも、季節のグラデーションは投影される。

タイムラインをどんどん更新しながら行き交うチャットの文字の中に、今日はいつもより、相手の心の声が濃く滲んでいるように感じられた。

役職も、立場も、年齢さえも一度脇に置き、ただ「その人」として言葉を綴ってくれているような気配。画面の向こうから、まっすぐ伝わってくるものがあった。

少し前までは、どのメッセージも、暑中見舞いのような、明るく簡潔な調子が多かった。それが今日は、しみじみと思いを吐露するようなチャットが、あちらからも、こちらからも届いた。

メッセージの主が意識してそうしたかはわからない。秋の気配と呼応しているようで、興味深く思う。

デジタルとアナログ、オンラインとリアルは、しばしば対照的に語られる。でも、今日のような日に思うのは、デジタルであろうと、リアルであろうと、自然の中に生かされている人同士がそこで出会っているのだ、ということだ。

「この方は、こんなに心の柔らかいところを、サラッと分かち合ってくださるのか。」

そんな驚きとともに、「秋がそうさせているのかもしれない」と気づいたとき、そのまま素直に受け止められた。そして、それを嬉しく思う。

昔の人々が、空の色や風の変化に「もののあはれ」を感じて、唄を送ったり、手紙を送ったりしたように、今の私たちもまた、チャットやポストを送って思いを交わすのだ。

指一本で簡単に削除できる、かりそめのメッセージかもしれない。でも、それはきっと大したことではなくて、小さなやりとりの中に生まれた心の波紋や、そこに宿った温もりこそを、大切に抱きしめて次の季節へと歩いていきたい。

どんな繋がりであろうと、「今」という同じ時を生きている、あなたと出会えたことが、どんなに稀有なことか。秋の気配とともに、しみじみと感じる1日だった。