現代造佛所私記No.126「西山庸平という人」

「こちら、ほぼ100年前のもので……こういう状態ですけど、貸し出し可能です。」

司書の女性がうやうやしく差し出したのは、3冊の古びた書籍だった。タイトルも擦り切れ、背表紙もぐらついている。

図書館の書庫に保管されているその3冊について、カウンターで貸し出しをお願いしたとき、司書さんはしばらくモニターを見て沈黙した後、「これは……とても古い本なので、どういう状態か……とりあえず見てみますね」とおっしゃったのだった。

確かに、これは取り扱いに気を使いそうだ。

「これは……大事に扱いますね!ありがとうございます」

「あ、大丈夫ですよ。もし、ベリっと表紙がとれたとしても、直しますから。どうぞ」

そんなやりとりを交わし、私はまるで「文化財」を手に取るような気持ちで、本を受け取った。

借りたのは、「西山庸平」という著者の「郷土心理学」「哲学概論」「デウエーの心理学」の3冊だ。

昭和4〜8年にかけて発行された、まさに戦間期、日本が世界恐慌の波に揺れていた頃の書物だ。奥付を見ると、1冊が1円とか2円の時代だったらしい。

西山庸平。明治から昭和にかけての教育者であり、心理学者。私はこの春、彼の名前と出会った。

今年度、私は地元小学校のPTA広報誌の編集部長を務めることになった。PTA活動の縮小とともに広報誌の発行もスリム化され、編集の意義すら問われる中で、私は部長としてどんな紙面づくりをしようかと、知人が貸してくれたバックナンバーを並べ、眺めていた。

この広報誌には、どの表紙にも、必ず記載されている言葉がある。

「汝を教育するものは、汝の父母にあらず、汝の教師にあらず、汝の生活それ自身である。汝の学習それ自身である。」

これこそが、西山庸平の言葉だ。

「これはどなたですか?」 と尋ねても、前任者も他の役員も知らなかった。ただ「この言葉と名前だけは消さないように」と、編集部で言い伝えられてきたらしい。

「誰も知らないのだから、もう削っても良いのではないか」という意見もあった。

PTA広報誌を廃止する学校もある昨今、この小学校でもこの広報誌の存在すら覚えていない保護者が多いと聞いて、広報誌自体の存在意義も問われていた。

PRプロデューサーの立場からすると、こんなに子供や学校、地域のことを思って活動する有志たちのことを、やはり知ってもらいたい、という自然な感情がある。

しかし、保護者にとって負担である側面は否定できない。

表紙をじっとみた。

この広報誌が創刊されたときに、「この言葉をぜひ入れたい。保護者として子供たちに伝え続けたい」と思った誰かがいて、その志が代々受け継がれてきたのだとしたら。

やはり、知らないから、読者に求められていないから、という理由で掲載を取りやめる判断は出来かねた。

何より、この言葉に込められた教育観に惹きつけられた。なんて真っ直ぐで、あたたかく、信頼に満ちた言葉なのだろうと。

そして、戦前の日本にこんなまなざしがあったのかと驚いた。この人物をもっと知りたいという思いに駆られた。私は、紙面作りの前に、「まずこの人物を知ろう」と思った。

インターネットで検索すると、高知出身の教育者で、地元の小学校の校長を務めた人物であること、いくつか著作があることがわかった。

古本屋を検索し、地元の図書館を調べると、県立図書館に数冊の蔵書があるのを見つけた。

こうして、私は今夜、不用意に触れれば裂けそうな表紙を開いている。

焼けた紙に、活版印刷の文字たち。古い漢字、旧仮名遣い。さすが、90年以上前の本だ。そして、なんと愛おしい佇まいだろう。

そしてそこには、思わぬ世界があった。

専門的で難解な書物を想像していたのに、ページをめくると、昭和初期の子どもたちの世界が眼前に広がるようだった。

たとえば「郷土心理学」。

神社仏閣の境内を駆け回り、釣りをし、川遊び、凧揚げに興じる無邪気な姿——そのひとつひとつを、彼は実にいきいきと、あたたかく描写していた。

「こんな壮観が又とあらうか。こんな愉快が又とあらうか」

続けて、遊びに夢中になった子どもたちが、畑に近づいたのだろう。百姓に注意されて恐縮する様子まで描かれていた。おそらく西山氏も当時そうだったのではないかと思うが、私はクスッと笑ってしまった。

そして、「哲学概論」の冒頭。その著書の目的を、「知識欲を満足せしめるよりも、むしろその人格修養に資せしむることの多いやうにと」とある。

このような西山庸平氏のまなざしは、本の隅々に満ちていて、まさに「教育愛」とでも呼びたくなるようなものだった。

彼の「大人化された子供のみ出入りが許されて居る」「大人生活に合流していく限りに於て、その児童生活が認めらるる」といった言葉には、今の子供たちの姿がそのまま重なるものを感じ、自戒の気持ちも湧き上がる。

子どもを「未熟な存在」と見るのではなく、「今、そのままのあり方のまま、ここで生きているひとりの人間」として尊重する。彼の著作から立ちのぼるその姿勢に、私は今、親として、大人として、励まされている。

さて、広報誌はどうするか。まだイメージも朧げではあるが、西山先生のお言葉は、大切に伝えていきたいと思う夜であった。