現代造佛所私記No.125「半分の台座 (10)」

人里離れた山の麓にたたずむ、仏像工房。
ある日届いた真新しい修理報告書。その中の「台座の画像」が、なぜか半分しか写っていなかった。

関係者たちは、ミスが起きた30分間をめぐって、慎重に記憶をたどりはじめる。

浮かび上がる、わずかな“空白の時”。
事務長が、静かに口を開いた。

「もしかしたら、まさに今、"犯人"が現場に戻ってきているかもしれません。」

向かった先で彼らが見たのは──
閉じたノートパソコンの上の“ある猫”の姿だった。

偶然が引き起こした一つの綻び。
それはやがて、工房にあたらしい風を呼び込んでいく。

松田さんが吹き出しそうになって、口を抑えた。何かのツボにはまったらしく、肩を揺らしている。

「私、うっ……ふふ。そんなん…想像もせんと、入稿してしもた……!っわははは!すみません、ふひひひ」

「事務長……そんなこと、ありえますか?」

事務長はうなづいて、

「画像の選択状態でパッドやキーに猫が触れると、ズレることはあるでしょうね。猫による誤入力を防ぐための、キーボードカバーが商品化されるくらいですから。」

「えぇっ!そうなんですか。」

「その可能性が、高いと思います。」

そこへ、用を足した仏師さんが、黒猫ロイロを抱いて話の輪に再び加わった。

「賑やかだねぇ。そうか、トノがやったんじゃしょうがないねぇ。」

「あぁ、でも、手順を飛ばしたり、確認を怠ったのは私やき……。申し訳ありませんでした。」

笑いの余韻に引きずられながらも、松田さんは深く頭を下げた。事務長が、それを制するように腰を少しかがめて言った。

「いえ、私もです。フォローが十分でなかったと、申し訳なく思います。だけどね、逆にこうも言えます。」

事務長は背筋を伸ばした。

「目立つミスがあったおかげで、他のミスもリカバリーする機会を得られた、と。こういうときは、他にも穴を掻い潜ったエラーがあると考えた方が良いんです。実際、ダミーの画像が残っていたり、誤字がありましたよね。」

事務長は、トノコの丸い体をゆっくり抱きあげ、優しく撫でた。

「それに、今日は犯人探しや問題探しが目的ではありませんから。報告書は、来週中に再入稿するとして……お二人に相談したいことがあります。」

ミスを挽回できることに胸を撫で下ろす一方で、僕は悔しかった。

「僕……台座が半分になっていたのはすぐ気づいたけど、他のミスは気づけませんでした。」

松田さんも、少しうつむき加減になってポツリと話し始めた。

「私は、本当のこと言うと、県庁の後輩にいい格好したい気持ちもあったがです。慌てて、見栄はって、こんなミスするなんて。恥ずかしいわ……」

だんだんと勢いを失う松田さんの声。僕たちは、なんとなく小さくなってしまった。

仏師さんと事務長が顔を見合わせた。仏師さんが、ロイロをおろして僕たちの顔を順に見ながら

「まぁ、よかったじゃない。結果オーライということで。事務長、なんかおやつない?」

休憩スペースへと先陣を切った。

「あ、そういえばお客様にいただいた焼き菓子があったんでした。松田さん、観音様にお供えしてるから、お下げしてください。」

事務長の指示で、松田さんは資料室のさらに奥にある仏間兼ギャラリーへ向かった。

仏師さんがお茶を淹れ直してくれた。事務長は、松田さんから菓子箱を受け取ると、包装を丁寧に解いて、蓋を開けた。隙間なく並んだクッキーやマドレーヌが、輝いて見えた。

手を伸ばす仏師さんの横で、事務長は包装紙をたたみながら話し始めた。

「私は、松田さんが大変なことを知りながら、サポートしきれませんでした。昨年、秋にお嬢様のご懐妊を知って、きっと松田さんもお忙しくなるだろうと思ってたから、高木くんにきてもらったんですが、イレギュラーな業務が増える中で、うまく業務を配分できなくて。」

僕は、ココアクッキーをつまみながら、初めて自分が採用された背景を知った。

目もおつらそうだから、パソコン業務を少し減らして、その代わり他の業務を増やすとか、相談しようとは思っていたんです。対外的な対応に追われて、今になってしまいました。」

「そうやったがですか、ありがとうございます。」

松田さんの目の周りが少し赤らんで見えた。熱いお茶のせいだろうか。

「あの……猫たちはどうされるんですか」

僕は、誰に聞くでもなく質問した。猫たちは、仏師さんの膝の上で太極図のような格好で互いに体を寄せている。

「…? どうもしないよ」

事務長はこともなげに言った。

「でも……猫がキーボードの上に乗ったのが原因だとしたら、やっぱりリスク管理の面では……あの、存在が”チーズの穴”というか。ごめんなさい、悪い意味ではないんです。ただ、僕だったらたぶん、猫たちは入室禁止にしたかもしれないなって……」

事務長はうなづきながら、カップを両掌で包み込んで、少し間をおいてから答えた。

「自分だったらどうするか?それはとても大切な視点です。確かに、そういう選択もあります。──でもね、高木くん。猫たちは、うちにとって“必要な不完全さ”の象徴なんです。」

「必要な不完全さ?」

「人は、管理された完璧な環境にいると、かえって視野が狭くなることがあるんです。思い込みで見落とすこともあるし、判断を急くこともある。そこに、ふいに猫が入り込んでくると──柔軟な思考を取り戻せるんです。ぬくもりとか、手触りとかでね、生き物としての感覚も思い出せる。

もちろん、最低限のセキュリティや入退室管理、業務フローは整えていますよ。その上で、“生き物の存在”が気づきを促すこともある、と考えているのです。」

「……つまり猫たちは、工房のリスク管理上、むしろ必要であると」

「ふふ、少なくとも、私や仏師にとってはね。」

事務長は、マドレーヌをつまんだ。

「うーん、甘いものが沁みます。猫たちをある程度自由にさせていることでね、高木くん。人間の思い込みを戒め、発想の転換をもたらすことができる、そんな気はしない?──お菓子食べてね。」

すぐには理解できなかった。顔に出ていたのだろう。事務長は続ける。

「それは、僕らが“人間らしく”働くために、大切な要素なんじゃないかな。」

仏師さんが続ける。

「もちろん、猫たちが何かを壊したり、誰かを傷つけたりしないように、ちゃんと気を配る必要はある。それに、作業場や資料室には絶対に入れないようにしてる。危険だし、猫の毛が入ると困ることもあるからね。でも、工房としては、揺らぎを与えてくれる猫たちの存在は、大いに歓迎しているよ。」

こんなに仏師さんが饒舌な日も珍しい。僕は、アーモンドサブレを袋から取り出しながら言った。

「えーと、じゃあ今回のことはこういうことでしょうか。半分消えた台座は、”チーズの穴”をすり抜けてしまった。だけど、工房の”不完全担当”の猫によって、最後の最後の穴の突破を回避することができた……」

「ふむ、そう考えましょう。」

にっこり笑う事務長。トノコとロイロが気持ちよさそうに、仏師さんの膝の上で喉を鳴らしていた。

「あ、それでね。」

食べかけのマドレーヌを平らげ、事務長が切り出した。

「松田さん、これからは、書類の整理や、クライアントワークにもう少し比重をおいた業務はどうでしょうか。あと、僕の秘書みたいな感じでスケジュール管理もしてもらえるとありがたいです。」

「秘書!?なんかえい響きですねぇ。」

松田さんは目を輝かせて、スノーボウルクッキーをつまんだ指を擦り合わせた。

「それから、高木くん。アルバイトは4月いっぱいまでの予定だけど、その後も来てもらえないかな?もちろん、学業に差し障りのない範囲で。」

僕にとって、工房で過ごす時間はとても刺激的だった。それに何より、ここの人たちや猫たちを好きになっていた。

「は、はい、ぜひよろしくお願いします!」

「君の観察眼、頼りにしてるよ。」

こうして、僕は工房の一員として、もうしばらく通うことになった。

僕はまだ知るよしもなかった。この決断が、自分の人生を思わぬ方向に連れていくことを。

窓の外の青楓が風に揺れて、スヤスヤと眠る猫たちに優しい影を落としていた。

(半分の台座 完)

このお話は、期間限定公開です。またどこかで高木くんはじめ造佛所の面々と会えますように。最後までお読みくださりありがとうございました。