夕食のあと、ふと立ち止まった。
食器に手をのばしかけて、「蛍はまだ飛んでいるだろうか」と思ったのだ。
ここのところ、夜は慌ただしかった。県外への出張、連夜のZoomミーティング。昨日は娘が急に高熱を出して、心の置き場もないまま過ぎていった。気づけば、月の光や蛍が姿を現す時間には、台所の蛍光灯の下でばかり過ごしていた。
季節は待ってくれない。あの光は、今しかない。
そう思ったら、いてもたってもいられず、洗いものはそこそこに、そっと台所を抜け出した。外は静かで、薄雲を透かした月が、家の前の小道をぼんやり照らしていた。
「うわぁ……」
思わず、声が漏れた。
小川のあたりに、たくさんの蛍が舞っていた。
明滅をくり返しながら、ゆらゆらと漂う光の群れ。
朝も夜もさらさらと流れ続ける小川のほとりには、クレソンやふき、熊笹、白椿、ユキノシタ、芭蕉……この土地に移り住んで5年、草花たちと交わしたあいさつも、ずいぶん板についてきた。
今の時期は、なんといってもテイカカズラだ。
川の向こう岸の斜面いっぱいに咲き誇り、ジャスミンに似た甘い香りが風に混じっている。そこに蛍の光が重なると、現実と夢の境目が曖昧になる。
すぐそばでは、スイカズラも満開だった。
白と黄色が混じりあった花が、すがすがしい芳香を放っている。振り返りたくなるような、抗いがたい香りだ。風に香りが乗り、光が揺れ、どこまでも静かな夜。
そのとき、足音がした。
あとから夫が、ゆっくりとやってきた。
「これが、家の真ん前で見れるなんてね。」
ふたりでことば少なに、ただ蛍を見つめる。
夜気に包まれ、心の奥がふわりとほどけていくようだった。
娘の熱もようやく峠を越え、今夜はうどんと枝豆をお腹いっぱい食べたあと、久しぶりに「工作をする」と言い出した。元気が戻ってきた証拠だ。
その姿を思い浮かべながら、蛍の光を見ていると、じわりと胸の奥に、あたたかいものが満ちてきた。ようやく、心からほっとしたのだと思う。
この川の音と、香りと、光と。
張りつめていたものを、そっとほどいてくれるこの場所に、深く感謝が湧いた。
日々のすぐ隣に、こんな一夜があること。
それは、ささやかで確かな贈り物だった。


