仏像製作に着手したドイツ人インターン生、Marieke。食事中は宗教の話はタブーと言われるが、話題は仏像の話へと自然につながっていく。
昼食中、ふとした問いかけがあった。キリスト教では、神の姿を誰も見たことがないから像を作ることが禁じられている。一方、仏教ではどうして仏像を作るのか?
素朴な疑問だった。なぜか彼女は、吉田仏師ではなく私に訊ねた。
お釈迦さま自身は、釈尊死後、何を依りどころとすべきかを尋ねた弟子に仏像を作りなさいとは言わなかった。しかし、死後、信仰の高まりの中で仏足石やストゥーパが作られるようになり、やがてガンダーラやマトゥラーで仏像が彫られるようになった。その仏像とは、仏そのものというよりも、仏の教えを象徴するものであり、見る人の心を悟りへと導く一つの“かたち”であること。
仏像の姿は、経典に則った儀軌に基づいて彫られる。つまり「見たことがないのにどうして彫れるのか?」という問いに対して、私の日本人的な感覚では「この世のすべてに仏性があり、それを象徴的にかたちにする」という考え方であり、神道の「八百万の神」の感覚とも矛盾しない。そう説明すると、Mariekeは神妙な顔で聞き入っていた。
……とはいえ、私は仏教学の専門家ではなく、これらの話も、かつて本で読んだことや、現場で感じてきた経験をもとに、私なりの言葉で話しているにすぎない。でも、仏像に触れ、祀り、見つめてきた年月のなかで育まれたこの感覚が、私の“仏と共にある日常”をかたちづくっているのは確かだ。
彼女は、これまで訪れた教会の彫刻の話もしてくれた。ドイツでは16世紀に作られた教会彫刻が修復されながら大切にされていること。そのため、新たに宗教彫刻を彫る文化があまりないこと。ティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider, ドイツ・ルネサンス期の宗教彫刻家)の話。イタリアでのインターン先では、宗教彫刻の職人に三人も出会ったこと…。
こうした異なる宗教・文化的背景をもつ彼女との交流が、神仏習合の中で生きる自らの輪郭を浮き彫りにするのがよくわかる。ちなみに、私は手元に7冊の聖書を持っていた。キリスト教の保育園に通い、その縁から子どもの頃は教会に通っていたし、キリスト教の病院で看護師をしていた。
Mariekeは今、吉田と同じように床に座り、手だけではなく両足も使って仏頭を彫っている。慣れない姿勢に腰が痛いと笑いながら、それでも「このやり方を学びたい」と真剣な目で刀を握る。
宗教や文化の違いを超えて、彼女はこの土地の技と祈りに飛び込んでくれている。その姿を見て、私たちもまた、心から祈り応援したくなるのだった。
この祈りを、仏の智慧と慈悲、かつて親しんだ主の慈しみに照らされながら、静かに捧げたい。