ドイツ南西部からやってきた若きインターンMarieke。
来高三日目の朝は、氏神さまの月詣りの日だった。
彼女も一緒に行くと目を輝かせた。来高翌日は、工房での作業に先立って古刹での大きな法要に参列が叶い、その翌日は氏神様の月詣りという巡り合わせ。このインターンシップは神仏の結んだご縁に違いない、とありがたく思う。
梅雨入り前の湿った空。鎮守の森を抜ける風は、新緑の葉を静かに揺らしていく。
参道を歩きながら、慎み深く好奇心旺盛なMariekeに話しかける。このシキビは毒なので近寄らないこと、でも、聖域を守る意味もあること。鳥居の先はご神域なので、一礼してから足を踏み入れること。多くの人が山を降り、日常的にお詣りする人はいないこと。石段に落ちている杉の枝々を脇に寄せながら、続ける。
石段の先に現れた拝殿。苔の絨毯に、本殿拝殿を囲むように立つ木々、見上げた先に丸く広がる曇り空。私より20cmくらい背の高いMariekeが天を仰ぐと、スッと伸びた針葉樹の精のようだった。
100年以上前の絵馬に囲まれ、拝殿に並んで座る。吉田と私が祝詞を奏上していると、隣のMariekeから深く静かな呼吸の音が聞こえた。
彼女はkneeling(正座)は長時間は難しいと笑っていたが、背を伸ばし正座をしていた。私たちを真似て二礼二拍手。私たちが促すと、ゆっくりと噛み締めるようにドイツ語で祈りを捧げていた。私たちには意味はわからなかったが、穏やかでどこか祝詞に似た声色からは、大切な人の幸せを心から願う慈しみの響きが伝わってきた。
彼女の祈りが終わり再び礼をすると、奉納演奏だ。吉田が楽箏を準備し、私は龍笛をとり出した。
龍笛は、地上と天を結ぶ龍の声だと言われていること。箏は、帝がご神託をいただくときに奏でられた楽器だということ。私たちの技術は拙いけど、神様に日頃の感謝を込めて奏でさせていただいていること…。拙い英語に、彼女は一つ一つうなづいていた。
拝殿に抜ける心地よい微風にそよがれながら、2曲の演奏が終わると、「素晴らしい演奏だった。そしてここは、本当にいい場所ですね」と、空を見上げた。たくさんの神様の御名をお呼びしていたことがなんとなくわかったのだろうか?ここには何人の何の神様がいるのか、と立て続けに質問があった。
私たちの生活に、仏教と神道が違和感なく共存、相補的に生活に息づいていることも、興味深いらしかった。
ふと見上げると、雲がさらに増え、霞んだ空が見えた。あぁ、この祈りも、音も、国、言葉も空に吸い込まれていく…不思議と心が軽やかになった。
遠い異国からやってきたこの友も、日本に生まれた私たちも、生まれて死にゆく同じ生命。いつか一続きのこの大きな空に還って行くのだ。それはきっと悲しみではなく、なんと祝福に満ちたことだろうかと思えるのだった。